高句麗の始祖である東明聖王(在位:B.C.37~B.C.19年)は、姓を高、名を朱蒙(もしくは鄒牟、もしくは衆解)といった。
夫餘(現在の中国吉林省にあった国。紀元前1世紀頃~494年)王の解夫婁は、老年になっても跡継ぎができず、あるとき外に祭壇を設けて山川の神々に息子の誕生を祈った。その帰り道、解夫婁王の乗っていた馬が鯤淵に至ったとき、大きな石を見て涙を流した。
王は不思議に思い、家臣に石をどかすよう命じた。すると、そこには蛙の形をした金色の子供がいた。王は「この子は天が授けてくれた世継ぎに違いない」と言って喜び、王宮に連れ帰って育てることにし、金蛙と名付けた。成人すると太子にした。
その後、宰相の阿蘭弗が言った。
「天帝が降臨されて『我が子孫にここで国を興させるから、汝等はここから立ち去りなさい。東海の浜に迦葉原という地がある。そこは土が肥えていて五穀がよく実り、都に向いたところだ』とおっしゃられました」
阿蘭弗はついに王に進言して、都を彼の地に移し、国号を東夫餘とした。
その後、天帝の子を自称する解慕漱という者がどこからともなく旧都に現れた。
解夫婁王が薨去すると、金蛙が後を継いだ。
ある日、金蛙王は大白山(白頭山)の南を流れる優渤水で美しい娘に出会った。話しかけると、その娘が言った。
「私は河神の娘で柳花と申します。弟たちと外で遊んでいるとき、ひとりの殿方にお会いました。殿方は天帝の子の解慕漱であるとおっしゃられました。そのあと熊心山麓を流れる鴨淥水の畔に建つ家で私をものにされました。しかし、どこかへお行きになったままお戻りになりません。両親は媒酌人もないまま交わりを持ったと責め、私を優渤水に幽閉してしまいました」
【始祖】東明聖王(朱蒙)[1-1]
