そうして礪津の東原へ行き、槍を地面に突き刺し、馬を走らせてそこへ飛び込み、槍を貫かせて死んだ。
享年21歳。葬儀は太子の礼葬に則って行われ、遺体は東原に埋葬され、廟が建てられた。その地を槍原とした。
秋8月、夫餘の帯素王が使者を遣わし、王をなじって言った。
「我が先王(金蛙)と先君の東明聖王は互いを好ましく思っていた。しかし、我が国の家臣を誘ってこの地に逃れ、民を集めて国家を成そうと欲した。
そもそも国には大小があり、人には長幼というものがある。小者が大者に仕えるのが礼儀であり、幼者が長者に仕えるのが順序である。
いま王が我に礼を尽くして従うなら、天は必ずや王を助け国は繁栄するであろう。しかしもしそうでないなら、国を保つのは難しいであろう」
そこで王は自問自答した。
「国を創ってからまだ日が浅く、民は劣り軍は弱い。状況に合わせ、今は恥を忍んで屈服し、後日改めて成果を上げることとしよう」
そこで、群臣と謀った王は、使者に次のように言おうとした。
「わたくしめは大海の片隅でひっそり暮らしており、いまだ礼儀というものを知りません。いま大王の教えを承り、ただただその命に従うばかりでございます」
そのとき、王子の無恤はまだ幼少の身であったが、王が夫餘の使者に告げようとする文言を伝え聞き、自ら使者に会って言った。
「我が祖先王(朱蒙)は神霊の子孫で、賢く多才でありましたが、大王(帯素)はその才を妬んで害そうとしました。讒言によって父王(金蛙)は祖先王を辱め、馬飼いにしてしまいました。そのため、祖先王は夫餘に安住できなくなって出奔したのです。
いま大王は先の過ちを省みることもなく、兵の多いことのみを頼りにして、我が国を軽視しています。使者の方にお願いします。帰国したら大王に次のようにお伝えください。『ここに累卵があります。大王が累卵を割らなければ、臣である我々は大王にお仕えしましょう。割ってしまうのなら、仕えることなどできません』」