冬11月、好童が自ら命を絶った。
好童は曷思王の孫娘にあたる次妃から産まれた。王はその容姿端麗なことを愛し、好童と名付けた。
嫡男である自分の子が太子の座を好童に奪われることを心配した王妃が、王に讒言して言った。
「好童は私への態度が不遜です。謀反を起こそうとしているに違いありません」
これを聞いた王が答えた。
「他人が産んだ子だから、それほど憎むのであろう」
王妃は王が自分の言葉を信じていないことを知って、のちのち禍が自分に及ぶことを心配し、涙を流しながら告げた。
「隠れて様子を見ていてくださいませ。もし何もなければ、私自らが罪に服します」
そのため、王は好童を信じることができなくなり、好童に罰を与えようとした。
ある者が好童に進言した。
「どうして王子は自ら釈明なさらないのですか?」
好童が答えて言った。
「私が釈明に及べば、母の悪事が露見し、王に憂いを贈ることになる。これが孝行といえるだろうか」
好童は剣に覆い被さって死んだ。
冬12月、王は王子の解憂を太子に立てた。
後漢に遣使して朝貢した。光武帝は新の王莽が『侯』に格下げした高句麗の位を『王』に戻した。
20年(37年)、王は楽浪を襲撃して滅亡させた。
27年(44年)秋9月、後漢の光武帝が軍を派遣した。
海を渡った後漢軍は、楽浪を討伐して我が国から取り戻し、後漢の郡県とした。薩水(清川江)より南の地が後漢に属すことになった。
冬10月、王が薨去した。大獣村原に埋葬し、諡号を大武神王とした。