慕本王(在位:48~53年)の諱は、解憂(もしくは解愛婁)という。大武神王の嫡子である。閔中王の崩御により王位を継いだが、粗暴で思いやりがなく国事を疎かにしたので、民はみな王を恨んだ。
元年(48年)秋8月、都が大雨に見舞われ、二十数カ所で山崩れが起った。
冬10月、王子の翊を太子に立てた。
2年(49年)春、王は将軍を派遣して、後漢の北平(河北省北東部にあった郡)、漁陽(北京市北部にあった郡)、上谷(河北省北西部にあった郡)、太原(山西省太原市にあった郡)を攻撃させたが、遼東太守の祭彤が恩義と信義をもって応じたため、後漢と高句麗はまた和親した。
春3月、都を暴風が襲い、樹木が倒れた。
夏4月、霜が落ち、雹雨が降った。
秋8月、王は詔を発して使者を各地に派遣し、国内の飢えた民に食料などを支給した。
4年(51年)、王は日増しに暴虐になり、人の上に座り人を枕にして眠った。このときに動揺を見せた者は謀反者として容赦なく斬り捨てられた。忠告する家臣は弓で射殺された。
6年(53年)冬11月、杜魯が王を殺した。
杜魯は慕本の人で王の左右に侍る役人だったが、周りの者たちが王に殺される様を見て、自分がいつ殺されるか心配で泣いていた。
ある者が言った。
「偉丈夫なあなた様がなぜ泣いておられるのですか。昔の人(『尚書』泰誓下)が『自分を可愛がってくれる人が君主の資格者であり、虐げる人は君主といえども仇以外の何者でもない』と言っています。いま、王の行いは残虐で、次々と人を殺し、万民の仇敵になっています。あなた様は必要な措置を講じるべきです」
杜魯は短刀を隠し持って王の前に進み出た。王がいつものように杜魯の上に座ったところで、懐から短刀を出して王を刺し殺した。
王は慕本原に埋葬され、諡号は慕本王とされた。