【第9代】故国川王(男武)[9-1]

 故国川王(故国襄王ともいう。在位:179~197年)は、諱を男武(もしくは伊夷謨)という。新大王伯固の第二子である。伯固が崩御すると、家臣たちは長男の抜奇を不肖者として退け、伊夷謨を共立して王とした。
 後漢の献帝の建安年間(196~220年)の初め、抜奇は兄であるのに王位に就けなかったことを恨み、消奴部の加と3万余りの民を連れて公孫康に投降し、沸流水に戻って暮らした。
 故国川王は、背丈が九尺あり、容姿は英傑そのもので、大鼎を軽々と持ち上げるほどの力があった。政務を執るときや判決を下すときは、寛猛が的を得ていた。

 2年(180年)春2月、王妃の于氏を王后に立てた。王后は掾那部の于素の娘である。
 秋9月、王は卒本に行き、始祖廟を祭った。

 6年(184年)、後漢の遼東太守が出兵し、高句麗に攻め込んできた。
 王は王子の罽須を派遣して防戦させたが、勝つことができなかった。
 王は騎馬の精兵を率いて親征し、坐原で後漢軍と戦って討ち破った。斬った漢人の首が山積みになった。

 12年(190年)秋9月、王都に雪が6尺積った。
 中畏大夫で沛者の於畀留と評者の左可慮は、ともに王后の親戚で、国の権力を握っていた。その子弟も権力を笠に着て驕り高ぶり、他家の子女をさらったり農地や屋敷を奪い取ったりしたため、民は憤り恨んでいた。
 話を聞いた王が怒って二人を誅殺しようとすると、左可慮たちは四掾那(掾那部内の有力4部族)を率いて反乱を起こした。

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