3年(302年)秋9月、王は3万の兵を率いて玄莵郡を攻撃し、8000人の捕虜を得て平壌に移した。
12年(311年)秋8月、王は将軍を派遣し、遼東郡の西安平県を併合した。
14年(313年)冬10月、王は楽浪郡に侵入し、男女2000余人を捕虜にした。
15年(314年)春正月、王子の斯由を太子に立てた。
秋9月、王は南進して帯方郡に侵入した。
16年(315年)春2月、玄莵城を攻略して破り、数え切れないほどの人を殺したり捕虜にしたりした。
秋8月、ほうき星が北東方に現れた。
20年(319年)冬12月、西晋の平州刺史だった崔毖が出奔してきた。
この前、崔毖は高句麗と段部(鮮卑の一部族)と宇文部(鮮卑の一部族)を密かに説き伏せ、3国に 共同で慕容廆の本拠地である棘城(中国遼寧省朝陽市)を攻撃させた。
慕容廆は、城門を閉ざして墨守したが、宇文部にだけは牛肉や酒を贈ってねぎらった。
同盟国の高句麗と段部は、宇文部が慕容廆と通じているのではないかと疑い、それぞれ兵を引き揚げて帰国した。