【第16代】故国原王(斯由)[16-3]

 13年(343年)春2月、王は王弟を前燕に派遣した。
 王弟は臣下と称して朝貢し、数え切れないくらい多くの貴重な宝物を献上した。
 美川王の屍は返されたが、王母は依然人質とされた。
 秋7月、王は住まいを平壌の東黄城に移した。
 東晋に遣使して朝貢した。
 冬11月、雪が5尺積もった。
 15年(345年)冬10月、慕容皝の命を受けた慕容恪(慕容皝の第4子)が、南蘇城(遼寧省撫順市)を攻略し、ここに駐屯軍を置いて帰国した。

 19年(349年)、王は捕虜となっていた前東夷護軍の宋晃を前燕に送り届けた。前燕皇帝の慕容雋は宋晃を許し、名を活と改めさせ、中尉に任命した。

 25年(355年)春正月、王子の丘夫を王太子とした。
 冬12月、王は前燕に使者を派遣して人質と貢物を差し出し、王太后の帰国を願い出た。
 慕容雋はこれを許し、殿中将軍の刀龕に王母周氏を送り届けさせ、高句麗王を征東大将軍営州刺史に任命し、楽浪公王に封じ、王号は従来どおりとした。

 39年(369年)秋9月、王は2万の兵で南下して百済を討とうとしたが、雉壌で戦って敗れた。
 40年(370年)、前秦(五胡十六国のひとつ)の王猛が前燕を滅ぼした。前燕の太傅の慕容評が逃げて来たが、王は慕容評を捕えて前秦に送った。

 41年(371年)冬10月、百済王が3万の兵を率いて平壌城を攻撃してきた。
 王は軍を率いて防戦したが、流れ矢に中り、当月23日に薨去した。王は故国原に埋葬された。

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