【第19代】広開土王(談徳)[19-1]

 広開土王(正式諡号は国岡上広開土境平安好太王。在位:392~413年)は、諱を談徳という。故国壌王の子である。生まれながら勇敢で偉人の風格があり、崇高な志を持っていた。故国壌王の3年(386年)に太子となり、9年(386年)に王が薨去したため即位した。

 元年(392年)秋7月、南の百済を征伐して10城を落とした。
 秋9月、北へ進んで契丹を征伐し、男女500人を捕虜にした。また、逃亡していた高句麗の民1万人が、教え諭されて帰って来た。
 冬10月、百済の関彌城(仁川広域市江華郡)を陥落させた。関彌城は四方が絶壁で海水に囲まれた要害の地だったが、王は7方向から攻撃して20日間で落城させた。

 2年(393年)秋8月、百済が我が国の南境を侵したので、王は将軍に命じてこれを防がせた。王は平壌に九つの寺院を建立した。

 3年(394年)秋7月、百済が侵攻してきたので、王は精騎5000を率いて迎え撃って破った。敗残兵はその日の夜に逃げ帰った。
 8月、国の南部に7つの城を築いて百済の侵入に備えた。

 4年(395年)秋8月、王は、百済と浿水(礼成江)の畔で戦って大勝利を収め、8000余人の捕虜を得た。

 9年(400年)春正月、王は遣使して、後燕(五胡十六国のひとつ)に朝貢した。
 春2月、後燕の慕容盛(第3代皇帝)は、高句麗王の礼が疎かだとし、自ら3万の兵を率いて攻撃した。
 このとき驃騎大将軍だった慕容熙(第4代皇帝)を先鋒とし、新城と南蘇の700余里の地を奪い取り、5000戸の住民を連行した。

 11年(402年)、王は派兵して後燕の宿軍城(遼寧省朝陽)を攻撃した。平州刺史の慕容帰は、城を棄てて逃亡した。

 13年(404年)冬11月、後燕に出兵して侵略した。

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