【第20代】長寿王(巨連)[20-3]

 北魏軍の来襲に備え、婦人たちに甲冑を着させて内側に配し、陽伊たちは精鋭軍を率いて外側を行軍した。葛慮と孟光は、騎馬隊を率いて殿を勤めた。行列は前後80余里になった。
 太武帝は、散騎常侍の封撥を高句麗に派遣し、王に馮弘を北魏へ送るよう命じた。
 王は北魏に使者を派遣して上表文を奉り、馮弘とともに北魏に仕えたいと願い出た。
 太武帝は、高句麗が勅命に従わなかったとし、高句麗攻撃の会議を開いた。
 太武帝は隴右(甘粛省蘭州市)の騎馬軍を動員しようとしたが、劉絜や楽平王の丕たちが反対して諫めたため、高句麗出兵は中止された。

 25年(437年)春2月、北魏に朝貢した。

 26年(438年)春3月、以前(436年)馮弘が遼東に着いたとき、王は遣使して労をねぎらって言った。
「龍城王馮君(皇帝を君に格下げして呼んでいる)は、慣れない野営で兵馬も疲れていることでしょう」
 馮弘は惨めな境遇の自分を恥じながらも、使者を怒鳴りつけて罵った。
 王は、馮弘を平郭(遼寧省瀋陽市新民市)に住まわせ、後に北豊(遼寧省大連市瓦房店市)に移した。
 馮弘は高句麗を見下し、北豊での政治や賞罰は北燕国時代と同じであった。王は、馮弘から小姓を取り上げ、太子の王仁を人質とした。
 馮弘はこれを恨み、宋(420年建国の南朝国家)に遣使して上表文を奉り、迎えに来てくれるよう頼んだ。
 宋の太祖は、王白駒たちを迎えに行かせ、高句麗に支度品といっしょに馮弘を送るよう命じた。
 王は南に行かせることを望まず、将軍の孫漱や高仇たちを派遣し、北豊で馮弘と一族十数人を殺害させた。

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