【第20代】長寿王(巨連)[20-7]

 69年(481年)、南斉に朝貢した。

 72年(484年)冬10月、北魏に朝貢した。
 このとき、魏の人は高句麗が強国だとして、朝貢国の使者に提供する館を配するとき、南斉を第一とし我が国をその次とした。

 73年(485年)夏5月、北魏に朝貢した。
 冬10月、北魏に朝貢した。

 74年(486年)夏4月、北魏に朝貢した。

 75年(487年)夏5月、北魏に朝貢した。

 76年(488年)春2月、北魏に朝貢した。
 夏4月、北魏に朝貢した。
 秋閏8月、北魏に朝貢した。

 77年(489年)春2月、北魏に朝貢した。
 夏6月、北魏に朝貢した。
 秋9月、出兵して新羅の北辺を侵し、狐山城を陥落させた。
 冬10月、北魏に朝貢した。

 78年(490年)秋7月、北魏に朝貢した。
 秋9月、北魏に朝貢した。

 79年(491年)夏5月、北魏に朝貢した。
 秋9月、北魏に朝貢した。
 冬12月、王が薨去した。98歳だったので、諡号を長寿王とした。
 北魏の孝文帝は、王の崩御を知り、担当官に白装束を身につけさせ、東郊で哀悼の儀式を挙行させた。また、謁者僕射の李安上を派遣し、『車騎大将軍・大傅・遼東郡開国公・高句麗王』という称号と『康』という諡号を贈った。

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