【第21代】文咨明王(羅雲)[21-3]

 12年(503年)冬11月、百済の達卒の優永が兵5000を率いて我が国の水谷城(黄海道新渓郡)を攻撃した。

 13年(504年)夏4月、北魏に朝貢した。
 北魏の世宗宣武帝は、東堂で我が国使者の芮悉弗を引見した。
 芮悉弗が申し開きをした。
「我が小国(高句麗)は天朝(北魏)に先祖代々忠誠を尽くし、特産物の献上を怠ったことがありません。ただ、黄金は夫餘で、メノウは渉羅(済州島)で産します。
 夫餘は勿吉(松花江一帯にいたツングース系民族)に駆逐され、渉羅は百済に併合されています。この2品を献上できなかったのは、両賊(勿吉と百済)のためでございます」
 宣武帝が言った。
「貴国は代々上将の任を担い、もっぱら国外を制圧し、数々の蛮族を征伐してきた。瓶(高句麗)に酒がないのは、酒樽(北魏)の恥である。これを誰が咎めよう。むかし高句麗が貢納を怠ったことがあったが、その原因は地方官にあった。
 そちは朕の思いを主(高句麗王)に伝えよ。威圧と懐柔を適宜用い、群がる賊を斬り捨て、東夷の地に安寧をもたらせ。二邑(勿吉と百済)を旧所(高句麗)に戻し、献上品を失うことなく常に貢納せよ」

 15年(506年)秋8月、王は、龍山の南で田猟し、5日して戻った。
 秋9月、北魏に朝貢した。
 冬11月、王は、将軍を百済に派遣して征伐したが、大雪で凍傷にかかる兵が続出し、引き返した。

 16年(507年)冬10月、北魏に朝貢した。
 王は、将軍の高老を百済に派遣し、靺鞨とともに漢城(京畿道)を攻撃しようとした。横岳の麓に陣を敷いているとき、百済が逆襲してきたため兵を引き上げた。

 17年(508年)、梁の高祖が詔して言った。
「高句麗王楽浪郡公の某(文咨明王)は、誠に忠誠心が篤く朝貢を絶やしたこともない。ここに爵位を授けるから、朝廷の偉功を広めよ。『撫東大将軍・開府儀同三司』に任じる」
 夏5月、北魏に朝貢した。
 冬12月、北魏に朝貢した。

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