夏王朝は実在したか[1]

 中国の文字資料で最古の王朝とされているのが『夏』だ。『太平御覧』が引用する『竹書紀年』に「夏の禹から桀までは14世17代471年だった」と記されているのを根拠として、中国では夏の建国を紀元前2070年前後だとする。また、夏という名は商王朝による呼称で、夏人が自らを何と名乗っていたかは分からない。
 司馬遷の『史記』には『夏本紀』の前に『五帝本紀』があり、その記述によると夏王朝の前に、初代王『黄帝』、黄帝の孫『顓頊』、黄帝の曾孫『嚳』、嚳の次子『堯』、顓頊の七代孫『舜』という『五帝』(数え方は史料によって異なる)が存在した。
 黄帝の前には『神農氏』が最有力氏族だったが、敵対勢力の『蚩尤』を倒したことで諸族の支持を得、天子に推挙され王位についた。橋山(陝西省黄陵市)に埋葬されたと書かれており、各種伝承からすると黄帝一族は陝西省一帯を治めていたようだ。
 堯と舜の時代は、史記以外にも『戦国策』『尚書』など多くの書物に記述がある。堯と舜は積極的に外征を行っていて、北方の『共工』、東方の『鯀』、南方の『驩兜』、西方の『三苗』を討って放逐した。
 追いやった場所はおおよそ現在の河北省、山東省、河南省、湖北省にあたるから、堯と舜は陝西省・山西省あたりを領土としていたことになる。史記五帝本紀にも「舜は冀州(山西省)人である」とある。
 夏王朝の始祖は顓頊の孫『禹』とされている。各地の治水事業で成功を収め、舜から王位を譲られて夏王朝を開いた。もとの姓は『姒』だったが、王位についたあとは『夏后氏』と称した。『竹書紀年』によると、禹は45年統治し、王位は息子の『啓』に引き継がれた(中国最初の世襲とされる)。
 その後、王統は太康、中康、相、少康、予、槐、芒、泄、降、扃、廑、孔甲、皐、発と続き、桀王のときに殷の湯王によって滅ぼされた。その年代は紀元前1600年頃と、中国では考えられている。

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