広開土王碑文を読む[7]

【碑文】
□至十七世孫、國𦊆上廣開土境平安好太王。二九登祚、號爲永樂太王。恩澤□于皇天、威武振被四海、掃除□□。庶寧其業、國富民殷、五穀豊熟。
昊天不弔、卅有九宴駕棄國、以甲寅年九月廿九日乙酉、遷就山陵。於□立碑、銘記勳績、以示後世焉。其□曰

【訳文】
 17世孫の國𦊆上廣開土境平安好太王は、18歳で王位に就かれ、永楽太王と号された。慈愛は天まで…し、権威と武力は世の中を揺り動かし、…を取り除かれた。(そのおかげで)庶民は生業に安ずることができ、国は富み民は栄え、五穀は豊穣した。
 (しかし)大いなる天は悼まず、(永楽太王は)39歳で崩御され、国をお捨てになられた。414年の旧暦9月29日に(ご遺体は)山陵に遷された。石碑を立てて功績を刻み込み、後世に示した。その…に言うには。

【解説】
 石碑の建立を命じた広開土王の経歴と功績が語られる。國𦊆上廣開土境平安好太王は、第19代高句麗王の諱。本名は談徳で、生前は永楽太王と呼ばれた。なお。広開土王は“好太王”と称されることが多いが、好太王は高句麗王の美称で、こう呼ばれた王が複数存在する。
 391年に数え18歳で即位し、413年に数え39歳で崩御したのだから、生年は375年ということになる。
 碑文では17代となっていて、『三国史記』高句麗本紀の“第19代王”と矛盾するが、始祖王からみて17代目の孫と解釈すれば問題はなくなる。
 『𦊆』は岡という意味。そのため、日本の印刷物では『國𦊆上』を『國岡上』とするものが多いが、厳密には誤り。ただし、どちらも読みは《コウ》、中国語でも共に《gang1》と発音される。

【字解】
 先頭に来る文字はよく読めないが、上部を“罒”とみる専門家が多い。“傳”と解する人もいる。
 『恩澤』の次の1字は、判読不能とする研究者が大半を占めるが、“洽”“冾”“治”“沿”などと読む人もいる。
 『掃除』の後の2字は、摩耗が激しくて碑面による判別は不能だが、文意から“九夷”が入ると想像される。
 『立碑』の前の1字も碑面では判読できないが、拓本で“是”と読む人が多い。
 『以示後世焉其』に続く文字も碑面では読めないが、拓本で“辞”や“詞”と釈する人がいる。

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