広開土王碑文を読む[11]

属民と臣民の使い分け

 冒頭部分で「以前から百済と新羅は高句麗の“属民”だった」と言っているが、これは高句麗が百済と新羅を自国に隷属する一地方政権と考えていたことを示唆している。百済の反乱も新羅の要請も、高句麗にとっては国内問題ということだ。
 一方、最後の部分では“臣民”という言葉が使われている。臣民にしてしまったということは、その前は臣民ではなかった、つまり別の国の民だったということだから、“以爲臣民”の主語が高句麗になることはない。高句麗にとって、百済の民も新羅の民も昔から“属民”だったのだから。
 碑文全体を通して、広開土王は中国王のように振る舞っている。“永楽”という自国の年号を用い、自ら“太王”と称し、即位には“登祚”(天子の位に就く)という言葉を用いている。だから“臣”という言葉も中国王朝のことを念頭に置いて考えなければならない。
 外交関係で使用されるとき、“臣”は“外臣”を意味する。時の中国王朝に服属を誓って朝貢する国は、中国皇帝の臣とみなされ、保護の対象とされる。たとえば、倭王武は宋にあてた上表文で自らを“臣”と称している。
 そうすると、臣民にしてしまった主体は、倭しか考えられない。倭が外国である百済や新羅を侵略して臣下にしてしまった。こう解釈するのが正しい。

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