【碑文】
八年戊戌、敎遣偏師、觀帛慎土谷、因便抄得、莫□羅城、加太羅谷男女三百餘人。自此以来、朝貢論事。
【訳文】
永楽8年、戊戌の年(398年)、(広開土王は)高句麗軍の一部を派遣し、粛慎と土谷を見つけたので、(戦って勝利を収め)莫…羅城と加太羅谷の男女300人余りをすくい取った。このとき以来、朝貢して(自国の)事情を報告するようになった。
【解説】
広開土王は、東方の山岳地帯に高句麗軍を派遣し、その地を征服することに成功した。
『帛慎』は粛慎のこと。高句麗の東方に住んでいたツングース系の狩猟民族で、勿吉や靺鞨と同系統の民族と考えられている。『土谷』も種族名だが詳細は不明。『莫…羅城』は粛慎の、『加太羅谷』は土谷の本拠地だったとおもわれる。
『抄得』とあるので、占領地の民をすべて連行したのではなく、大勢の中から選んで連れ帰ったようだ。
『論事』はもともと“善悪、道理、事象などについて論じ合う”という意味だが、ここでは“国内事情を高句麗に説明して是非を仰いだ”という意味で使われている。