殷が強力な統治システムを築いていたことは、墓制から理解できる。副葬品種類が被葬者の階級により明確に区分されていて、青銅製の『鼎』は上位者の墓からしか出土しない。殷朝廷から青銅の鼎を下賜された者だけが、地方の首長として権力を振るうことができた。ちなみに『鼎の軽重を問う』という諺の大元はここにある。
また、殷の勢力下にあったところでは、支配者階級の墓には『棺槨墓』(木槨の中に棺が安置されている墓)が採用されている。日本の古墳時代、大和朝廷に服属した国が伝統的な墓制を捨てて前方後円墳を採用したのと同じだ。
『二里岡文化期』には、山西省南関の『垣曲商城』や湖北省黄坡の『盤龍城』など一辺300~400メートルの城壁をもつ小規模城址が各地に築かれる。これらの城から在地土器はほとんど出土せず、その多くが『二里岡文化様式』である。つまり、殷は各地に前線基地を確保し、そこへ中央から監督官を派遣して統治していたと考えられる。
こうした中央集権的な統治をうかがわせる出土物が、二里岡文化期の遺跡から次々と発見されている。たとえば、各地で出土する青銅器はほぼ同じ様式で、中央で画一的に製作されていた。地方にあったのは銅鉱石を精製して粗銅にする工場だけで、わざわざ中原まで運んでから製品に加工していたのだ。原料となる銅には四川省産や湖南省産があることから、長江流域にまで影響力を及ぼしていたことが分かる。
殷の統治機構は、中国官僚制度の萌芽を感じさせるが、良いものなら多民族の文化でも積極的に受け入れる姿勢を示し続けた。先商文化を詳細に検討すると、さまざまなことが浮かび上がってくる。
まず、北方文化の要素が比較的強いことだ。これは殷民族がどの系統に属するかという問題とも関連する。もともと河北省南部を本拠地にしていたから、すぐ北は牧畜狩猟民族が暮らす長城地帯だった。遼西の『小河沿文化』や内蒙古の『老虎山文化』の影響を受けていてもおかしくない。殷が拡大する様子をみても、先進文化と外交によって統合するというよりも、軍事的圧力で屈服させていたようだ。
次に、『山東龍山文化』の影響が強いことだ。青銅彝器による階級システムや棺槨墓制度は、みな山東龍山文化の山東省で始まったものだ。殷代を代表する紋様として有名な『饕餮文』も、そのオリジナルは山東龍山文化の『獣面文』(さらに遡れば江南『良渚文化』の獣面文)にある。先商文化圏の隣に山東龍山文化圏があったし、海がある山東エリアから海産物や塩の供給を受けていただろうから、経済的にも密接な関係にあったはずだ。
殷王朝の真実[2]
