元のモンゴル族や清の女真族とは異なり、殷は征服地の先進文化を受け入れるだけではなく独自の文化を保持発展させた。特に祭祀儀礼が発達し、統治システムにも組み込まれ、国家を支える重要な役割を果たした。
殷墟遺跡では祭祀犠牲坑が大量に発見されていて、ウシやブタといった家畜だけでなく、人間の犠牲坑も多い。武丁王墓と考えられている1001号墓には12体の殉死遺体と59体の首なし遺体が埋葬されており、首なし遺体は葬儀に使用された人間犠牲だったと思われる。全体で1221基ある坑のうち、実に510基が人間犠牲坑である。
甲骨文に『羌』(一般的にはチベット系種族のことだが、殷代では西方の黄土高原にいた異民族のことを指す)を捕らえて生贄にしたことが記録されているから、捕虜を人間犠牲とする儀式が頻繁に行われていたようだ。
最初期の漢字である甲骨文字も、占卜の結果を記すために発達したものだ。亀の甲や牛の肩甲骨に穴を入れて火で炙り、ヒビの入り具合で吉凶を占った。甲骨文字を刻んでから焼いたという説明をしている書物があるが、これは間違い。刻線が克明に残っているのは占後に記されたからだ。
甲骨文は、B.C.1250年頃の武丁王時代に突如として現れる。現在まで10万点あまり発見されており、3000ほどの文字のうち約800字が解読されている。出土した甲骨の半数が武丁王時代のもので、(山東省大辛荘遺跡を唯一の例外として)他所では出土していないことから、漢字は武丁王が発明したものという学説もある。
一方、新石器時代から土器に記されてきた文字のような符号を漢字の起源と考え、この符号が漢字に発展したとする学説が中国では一定の支持を受けている。殷墟遺跡でも、青銅武器には『亞』という銘が刻まれていて、王墓も亞形に造営されている。
後期の『殷墟文化時代』になると、殷の支配体制は動揺を見せ始める。『史記』の『殷本紀』には「都を転々と移したため諸侯が従わなくなった」と記されている。
長江中流域では、殷の青銅器文化を吸収して独自の青銅彝器を生産する人々が現れる。たとえば、江西省の『呉城文化』は殷墟文化期と併行するものだが、後の『楚文化』にも繋がる独自性を発揮している。また、四川省の『三星堆遺跡』でも、この時期に特異な青銅器文化が発達している。
殷墟文化時代、陝西省の渭河流域では、『周』が勢力を拡大していた。殷末期には諸侯が次々と周に従い、殷の支配権は急速に縮小した。そして、紂王の時代に都が陥落し、殷はあっけなく滅んだ。
『滅殷』と呼ばれるこの年は、諸説あって定説というものがない。中国の『夏商周年表プロジェクト』はB.C.1046年としている。このほか、B.C.1018年説、B.C.1123年説、B.C.1127年説などがある。
殷王朝の真実[3]
