『三国遺事』(13世紀末に高麗の僧・一然が記した私撰の史書)では、新羅の始祖伝説が次のように語られている。
西漢(前漢)地節元年(紀元前69年)3月1日、いまの六部(閼川の楊山村、突山の高墟村、觜山の珍支村、茂山の大樹村、金山の加利村、明活山の高耶村)の祖先にあたる首長たちが、子弟を率いて閼川の岸に集まった。
そのとき、ある者が提案した。
「我々には多くの民を治められる王がいない。そのため、民は欲望のまま動いてやりたい放題だ。みんなに尊敬される人物を探し出して王とし、国を建て、都を築こうじゃないか」
こうして、首長たちが土手の上にのぼって南を眺めると、楊山の麓にある蘿井の近くに雷光のような不思議な雲気が漂っていた。そこには白馬がおり、何かを拝むように跪いていた。
白馬を捕まえようということになり、蘿井へ行ってみると、そこには大きな紫色の卵があった。白馬は人が来たことを確かめると、ヒヒーンといなないて天へ駆けていった。
ひとりの首長が卵を割ると、中から容姿端麗な男子が現れた。この子を東の泉で洗うと体が輝き出し、鳥獣が集まって踊りはじめた。そして、その誕生を祝うかのように、天地が揺れ月と太陽の輝きが増した。
そこで、首長たちは『赫居世』と名づけ、号を『居瑟邯』とした。
民は争って祝福に駆けつけた。そのなかのある者が言った。
「天子が降臨したからには、有徳の娘を見つけて王妃としなければならないでしょう」
この日、沙梁里の閼英の井戸に鶏龍が現れ、その左脇から童女が産まれ出た。容姿は申し分なかったが、口だけが鶏の嘴にそっくりだった。しかし、月城の北川で顔を洗うと、嘴が抜け落ちた。
首長たちは南山の西麓に宮殿を造営して、この二児を大切に育てた。
男の子は瓢箪のような卵から生まれた。ここの民は瓢を朴とも言う。そこで、男の子の姓を朴とした。女の子は生まれた井戸の名から閼英とした。人々はふたりを二聖と呼んで敬った。
男の子が13歳になると、首長たちは彼を王として擁立し、女の子を皇后とした。
国号は『徐羅伐』{ソラボル}または『徐伐』{ソボル}あるいは『斯羅』{シラ}または『斯盧』{シロ}とした。王が鶏井で生まれたので『鶏林国』ともいう。鶏龍の出現は吉祥である。
一説には、脱解王の時代に金閼智を得たが、そのとき鶏が林の中で鳴いたので、国号を『鶏林』に改めたともいう。この後、最終的に国号を『新羅』と定めた。
治めること61年、王は天に昇って7日間滞在した。その後、遺体は散り散りとなって大地に落ちた。皇后も亡くなった。
人々はふたりを合葬しようとしたが、大蛇が邪魔するので、五体を五陵(またの名を蛇陵)に埋葬した。いまの曇巌寺北陵がそれにあたる。そして、太子の南解が継位した。
以上の伝承は『三国史記』が初代新羅王とする朴赫居世の建国神話にあたる。