【始祖】東明聖王(朱蒙)[1-5]

 2年(B.C.36年)夏6月、松譲は朱蒙に降参した。朱蒙は松譲の旧領を多勿都と命名し、松譲を領主に任命した。旧土を復興させることを高句麗語で多忽というので、この名前にした。

 4年(B.C.34年)秋7月、城郭を造って宮殿を設けた。
 冬10月、王は烏伊と扶芬奴に命じて、大白山の東南にある荇人国を討伐させ、土地を取り上げて城邑を築いた。

 10年(B.C.28年)冬11月、王は扶尉猒に命じて北沃沮(咸鏡北道)を討伐して滅亡させ、城邑を築いた。

 14年(B.C.24年)秋8月、柳花が東夫餘で逝去した。金蛙王は皇后の礼で葬儀を執り行い、神廟を建立した。
 冬10月、王は夫餘に使者を派遣し、方物を献上して金蛙王の徳に報いた。

 19年(B.C.19年)夏4月、王子の類利が母親とともに夫餘から逃げてきた。朱蒙は喜び、類利を太子とした。
 秋9月、朱蒙王が40歳で薨去した。龍山に葬り、諡号を東明聖王とした。

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