夫餘王は報告を聞いたが、累卵の意味が分からず、下々の者にまで尋ねた。すると、ひとりの老婆が大王に言った。
「累卵とは危険のことです。それを割らないというのは、安泰を意味します。王子の言葉の意味は次のようなものでしょう。『大王は自分の危うい状況に気付かず、他国が朝貢して来ることばかり望んでいますが、そんなことでは危険が増すばかりです。安泰という政策を採用するのが自明の理です』」
29年(10年)秋7月、豆谷に離宮を造営した。
31年(12年)、新(前漢後の中国王朝。8~23年)の王莽(新朝の皇帝。在位:8~23年)は高句麗兵を徴発して匈奴を討とうとした。高句麗人が戦いに行こうとしなかったので、王莽は強いて出兵させたが、兵はみな砦から逃亡し、法を犯して強盗になった。
遼西郡(中国河北省北部)の長官であった田譚は、逃亡兵を追撃して討とうとしたが、逆に殺されてしまった。
新の地方官僚たちは我々に叛乱の罪を着せようとしたが、新の大臣である荘尤は次のように上奏した。
『高句麗人は罪を犯したが、州や郡に命じて慰安させたほうがよいでしょう。いま大罪を負わせると、おそらく謀反を起こし、夫餘にも同調する者が出てくるでしょう。まだ匈奴を打ち負かしておりません。夫餘や高句麗がまた反乱を起こしたら、我が国にとって大憂となります』