【第3代】大武神王(無恤)[3-4]

 王は戦死者を篤く弔い、自ら負傷者を慰問し、人々をねぎらった。そのため、国民は王の徳義に感じ入り、国事に命を捧げてもかまわないと思った。
 春3月、骨句川の神馬が夫餘の馬100匹を引き連れて、鶴盤嶺の麓にある車廻谷に戻ってきた。
 夏4月、帯素王の弟が曷思川の近くで建国し、王を名乗った。
 この王は金蛙王の末子だが、史書にその名はない。帯素王が殺されるのを見て、そのうちに夫餘は滅ぶと悟り、従者百余人とともに鴨緑谷に行った。そこで海頭王が田猟しているところに出くわし、王を殺して民を支配し、都をつくって曷思王と称した。
 秋7月、夫餘王帯素の従兄弟が
「先王(帯素)は自らを滅ぼしただけでなく、国も滅ぼしてしまいました。民は依るところがありません。王弟は逃亡して曷思で国をつくってしまいました。私のような愚か者に国を復興させることはできません」
と言って、万余人を引き連れて高句麗に投降してきた。
 王は帯素の従兄弟を王に封じ、掾那部(高句麗五部のひとつ)の所属とした。背中に絡み紋様の刺青があったので、絡という氏を与えた。
 冬10月、怪由が病没した。王が病床を見舞ったとき怪由が言った。
「北溟出身で卑しい身分の私をご贔屓いただいたご恩に対し、死んだ後も生きているときと同様、けっして報いることを忘れません」
 王はその言葉を聞いて頷いた。大きな功績を残したので、怪由は北溟山の南に葬られた。王は役所に命じて、季節ごとに祭らせた。

タイトルとURLをコピーしました