大祖大王(国祖王ともいう。在位:53~146年)の諱は宮で、幼名を於漱といった。古鄒加(10等中第4の官位)の再思は、第2代瑠璃明王の子であったが、その再思の子が大祖大王である。王母は夫餘人であった。
慕本王の崩御後、不肖の太子には国政を任せられないとの声が上がり、家臣団が協議して宮を高句麗王に推挙した。
大祖大王は産まれたときから目を開いて視ることができ、幼い頃から優秀この上なかった。しかし、7歳で即位したため、王母が摂政となった。
3年(55年)春2月、後漢の遼西郡(河北省北部)に10の城を築き、後漢軍の侵攻に備えた。
秋8月、国の南部がイナゴに襲われ、穀物に被害があった。
4年(56年)秋7月、東沃祖(咸鏡道にあったツングース系種族の国)を討伐して高句麗の領土とした。これにより東の境は滄海(日本海)、南の境は薩水(清川江)になった。
7年(59年)夏4月、王は孤岸淵へ行って、民が魚を捕る様子を見学し、赤いヒレの白魚を得た。
秋7月、王都が大洪水に見舞われ、民の家が流されたり浸かったりした。
10年(62年)秋8月、王が東で狩猟して白鹿を得た。国の南部へイナゴが飛び、穀物を害した。