69年(121年)春、後漢の幽州(中国河北省北部から満州南部一帯)刺史(長官)の馮煥、玄莵郡太守の姚光、遼東郡太守の蔡諷たちの将兵が侵入して進撃し、穢貊の頭目を殺し、兵馬財物をことごとく獲得した。
そこで王は、弟の遂成を派遣し、2000余りの兵で馮煥・姚光たちに逆らった。遂成は遣使して偽って投降したが、馮煥たちはこれを信じた。遂成はこの隙に態勢を整え、険峻な場所で後漢の大軍を遮った。
王は密かに3000の兵を派遣して、玄菟と遼東の2郡を攻めて城郭を焼き、2000人余りを殺したり捕えたりした。
夏4月、王は鮮卑族の兵8000とともに遼隊県(中国遼寧省鞍山市)を攻撃した。遼東郡太守の蔡諷は、兵を率いて新昌県(中国遼寧省鞍山市)へ出兵したが戦死した。
功曹掾(人事担当官)の龍端と兵馬掾(軍事担当官)の公孫酺は、身をもって蔡諷を守り、ともに陣没した。このとき後漢軍は100人余りの死者を出した。
冬10月、王は夫餘に行幸し、大后の廟を祭った。困窮している庶民を慰問し、その生活状態に応じて施しを与えた。
粛慎(高句麗の東部にいたツングース系狩猟民族)の使者が訪れ、紫色をした狐の毛皮、白鷹、白馬を献上した。王は宴席を設けて労をねぎらってから使者を帰した。
冬11月、王が都に帰還した。王は弟の遂成に軍事と国事を統括させた。
冬12月、王は馬韓と穢貊の1万余騎を率いて進軍し、玄莵郡城を包囲した。夫餘王は後漢のために王子の尉仇台を派遣した。尉仇台が2000の兵を率いて後漢軍とともに城を守ったため、高句麗軍は大敗した。
70年(122年)、王は馬韓、穢貊とともに遼東郡へ侵入したが、夫餘王が派兵して後漢軍を救援し、高句麗を撃破した。