明臨答夫による天難が起こったとき、次大王の太子である鄒安は逃げ隠れたが、嗣いだ王が大赦令を発布したと聞き、すぐに王宮の門前に行って告げて言った。
「さきに国に災禍があったとき、臣は死ぬことができず、山谷に逃げてしまいましたが、いま王による大赦令を聞き、己の罪を告げに参りました。
もし大王が法に則り市場で処刑するようお命じになられても、愚臣はご命令に従う所存でございます。ご助命いただき遠方に流罪としていただけますならば、死体を生き返らせ、白骨に肉をつけて蘇らせるほどの喜びでございます。
しかし、いくら望んでも叶うような願いでないこと、重々承知いたしております」
王は鄒安に句山瀬と婁豆谷を与え譲国君に封じた。
また、明臨答夫を国相に任命して沛者の官位を与え、国内外の統帥権を司らせ、梁貊の部落(渾江西岸部)を治めさせた。このときから左輔と右輔は国相と改めた。
3年(167年)秋9月、王は旧都の卒本に行き、始祖廟を祭った。
冬10月、王が卒本から戻った。
4年(168年)、後漢の玄莵郡太守の耿臨が高句麗の領土へ侵入し、高句麗兵数百名を殺害した。王はすすんで投降し、高句麗が玄莵郡に属することを請うた。
5年(169年)、王は大加の優居や主簿の然人等に兵を率いさせ、玄莵郡太守の公孫度を助け、富山の賊を討った。