【第8代】新大王(伯固)[8-3]

 8年(172年)冬11月、後漢が高句麗へ大軍を送った。攻めるべきか守るべきか、王は群臣に諮問した。家臣たちは討議して進言した。
「漢兵は大軍を頼みにして我が軍をなめてかかっております。もし出撃しなければ、漢軍は我が軍を臆病だと見なし、何度でも攻めて来るでしょう。
 我が国は山が峻険で道が狭隘なため、関所を一兵卒が守るだけで、万兵の敵軍で以てしても攻め落とせません。
 漢兵がいくら多いといっても何か方策があるはずです。出陣して国をお守りくださいますようお願い申し上げます」
 明臨答夫が言った。
「そうではございません。大国の漢は多くの民を抱えております。その漢の強兵がはるばる遠征して来て我が兵と一戦交えようというのです。正面からぶつかってもとうてい勝てるものではございません。『兵多なれば急襲、兵少なれば墨守』これが兵法の常道でございます。
 いま漢軍は千里のかなたから兵糧を運び入れており、持久戦に耐えられるような状態ではありません。堀を深くし、その土で土塁を高く積み上げ、城の周りを焼き払って見通しをよくした上で漢軍を迎え討てば、短期間で飢えに苦しんで撤退するでしょう。
 そして、漢軍が退却を始めたときに精兵をもって追撃すれば、我が軍は勝利を収めることができます」
 王は明臨答夫の策を善しとし、高句麗軍は籠城して固く守った。後漢軍は城を攻めたてたが、城門を破ることはできなかった。
 果たして、後漢兵は飢餓に陥り、引き上げて行った。明臨答夫は数千の騎兵を率いて追走し、坐原で戦った。後漢軍は大敗し、一匹の馬も帰ることができなかった。
 王は大いに喜び、明臨答夫に食邑として坐原と質山の地を賜った。

 12年(176年)春正月、群臣が王に太子を立てるよう請願した。
 春3月、王は王子の男武を王太子とした。

 15年(179年)秋9月、国相の明臨答夫が113歳で死去した。王は自ら弔問に訪れて慟哭し、悲しみのあまり7日間政務を執らなかった。礼葬を行って質山に埋葬し、20戸の墓守りを置いた。
 冬12月、王が薨去した。故国谷に埋葬され、諡号は新大王とされた。

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