東川王(東襄王ともいう。在位:227~248年)は、諱を優位居、幼名を郊彘といった。山上王の長子である。母は酒桶村の人で、王宮に入って山上王の側室となった。史料がないため部族の姓はわからない。先王の17年に王太子となり、この年(227年)になって王位を継いだ。
王は心が広く思いやりがあった。王后は王の気持ちを試そうとした。王が外に出たとき馬車の馬のたてがみを切らせた。
王は帰ってきて言った。
「馬にたてがみがない。実に可愛そうだ」
また、食事のときに熱いスープを王の服にこぼさせた。王はやはり怒らなかった。
2年(228年)春2月、王は卒本へ行幸して、始祖廟を祭り大赦を行った。
春3月、于氏を王太后に封じた。
4年(230年)秋7月、国相の高優婁が逝去したので、于台の明臨於漱を国相に任命した。
8年(234年)、魏が使者を派遣し、高句麗との国交を求めた。
秋9月、王太后の于氏が逝去した。王太后は臨終の際に遺言を残した。
「妾は正しい行いをせず、二人の王の妻となりました。どんな顔をして地下で国壌王(故国川王)にお会いしたらよいのでしょう。群臣たちに忍びないという気持ちがあるのなら、故国川陵の溝に落とさず、山上王陵の側に葬ってください」
葬儀は遺言通りに執り行われた。
巫師が言った。
「国壌王が降りてこられて予におっしゃいました。
昨日、于氏が川上に帰ってゆくのを見て、怒りを抑えられず喧嘩をしてしまった。戻って思い返してみると、まことに厚顔無恥な行いであった。国民に合わせる顔がないから、そちが朝廷へ行き、何かで陵を遮るよう伝えてくれ」
そこで、故国川王の陵墓の周りに松の木を七重にして植えた。
10年(236年)春2月、呉の孫権が胡衛を派遣し、我が国との国交を求めてきた。王は胡衛を王都に留めた。
秋7月、王は胡衛を斬首し、その首を魏に送った。
11年(237年)、王は魏に使者を派遣し、年号の改定を祝った。この年が魏の景初元年である。