【第11代】東川王(優位居)[11-4]

 王は帰国すると論功行賞を行い、密友と劉屋句を第一とした。
 密友には巨谷と青木谷を、劉屋句には鴨緑江の杜訥河原を領地として与えた。死んだ紐由には大使者の官位を追贈し、跡継ぎの多優を大使者に昇格させた。
 この戦役で、魏の将軍は粛慎の南境まで進み、戦功記念の文言を岩壁に刻んだ。また、丸都山でも岩壁に『不耐城』の銘を刻んで帰国した。
 以前、家臣の得来は、しばしば中国に侵入する王を諫めた。しかし、王は聞く耳を持たなかった。
 得来は嘆いて言った。
「王都は魏に襲われてヨモギしか生えない不毛の地となるだろう」
 こう言い残して断食して死んだ。
 その後、丸都城を占領した毌丘倹は、得来の墓を壊させず、墓の周りの木を切ることも禁じ、捕えられていた得来の妻子を解放した。

 21年(247年)春2月、魏軍に破壊された丸都城は復旧不可能と判断された。王は平壌に城を築き、民を宗廟、社稷とともに移した。

 22年(248年)春2月、新羅が遣使して来たので、国交を結んだ。
 秋9月、王が薨去した。柴原に埋葬し、諡号を東川王とした。
 国民は王の恩徳を懐しみ、悲しまない者はなかった。殉死を願い出る近臣が多くいたが、嗣王の中川王は礼に合わないとして殉死を禁じた。
 しかし、葬儀当日、王陵に来て殉死する者がはなはだ多く、民は柴を刈って遺体を覆った。そのため、この地は柴原と名付けられた。

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