3年(294年)秋9月、国相の尚婁が逝去し、南部(高句麗五部のひとつ)の大使者の倉助利を国相に任命し、大主簿の官位を授けた。
5年(296年)秋8月、慕容廆が侵入した。
故国原で西川王の陵墓を見つけ、家来に墓をあばかせた。すると、墓をあばいた者が突然死した。構内で音楽や歌声を聴いた者もいた。神がいると恐れおののき、兵たちは逃げ去った。
王が群臣に諮問した。
「慕容氏の兵馬は精強で、頻繁に侵略してくる。どうすればよいか」
国相の倉助利が、答えて言った。
「北部の大兄の高奴子は、賢にして勇でございます。大王が賊軍を抑えて民を安心させたいとお考えでしたら、高奴子以外に用いるべき人物はおりません」
王は高奴子を新城太守に任命した。高奴子は善政を敷き、威厳を保った。そのため、慕容廆が再び侵入して来ることはなかった。
7年(298年)秋9月、霜と雹で作物が枯れ、民は飢えた。
冬10月、王が壮麗華美な宮室を増築したため、民が飢えて苦しんだ。群臣がしばしば諫めたが、王は聞き入れなかった。
11月、王は乙弗を捜し出して殺そうとしたが、見つけ出せなかった。
8年(299年)冬12月、王都に雷が落ち、地震が起こった。
9年(300年)春正月、王都に地震があった。
2月から秋7月まで雨が降らず、飢餓民が互いを食べた。