【第16代】故国原王(斯由)[16-2]

 高句麗への道は二つあり、北道は平坦で広く、南道は険しくて狭かった。そのため、多くの者が北からの進攻を希望したが、慕容翰が言った。
「敵は常識的に考え、大軍は北道から来ると判断し、北の守備を厚く南の守備を薄くするでしょう。王(慕容皝)は精鋭を率いて南道から敵の不意を突いて攻め込んでください。
 北道は無視してもかまいませんが、別働隊を出しておきましょう。もしうまくいかなくても、敵の主力部隊は壊滅していますから、枝葉の部隊では何もできますまい」
 慕容皝は、慕容翰の意見に従った。
 冬11月、慕容皝は、4万の精兵を自ら率いて南道を進んだ。慕容翰と慕容覇が先鋒となった。長史の王㝢たちは1万5000の兵を率いて北道から侵入した。
 王は弟の武に5万の強兵を与えて北道を守らせ、自らは弱兵を率いて南道を守備した。
 慕容翰等の先鋒軍が戦闘の口火を切り、慕容皝が大軍で攻め立てた。我が軍は大敗し、将軍の阿仏和度加が前燕左長史の韓寿に斬り殺された。前燕の諸軍は勝ちに乗じて丸都に入城した。
 王は単騎で断熊谷へ逃げ込んだ。前燕将軍の慕輿埿が追撃して、王太后の周氏と王妃を捕えた。
 しかし、王㝢たちは北道で高句麗軍に全敗した。そのため、慕容皝は追い詰めることをせず、使者を派遣して高句麗王を招いたが、王は出て行かなかった。
 慕容皝が帰国しようとしたとき、韓寿が進言した。
「峻険な高句麗の地を占領しつづけることは困難です。今は王も民も四散して山や谷に潜伏しておりますが、我が軍が去れば鳩のようにまた集まるに決まっております。
 再び集まった敗残兵たちは、我が国を煩わせること必定。父王(美川王)の屍を車に載せて持ち帰り、生け捕った王太后を連れ帰ってください。高句麗王が身をつつしんで帰順した後で帰してやればよろしいでしょう。
 恩義と信頼をもって手なずけることが上策かと存じます」
 慕容皝は韓寿の言うとおり美川王の墓をあばいて遺骸を車に乗せ、国倉に収められていた先祖代々の宝物を没収し、男女5万人を捕虜にし、宮殿を焼いて丸都城を破壊してから龍城に帰還した。

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