14年(405年)春正月、慕容熙が、遼東城(遼寧省遼陽市)を攻撃した。
落城寸前のとき、慕容熙は将兵たちに入城しないよう厳命した。陥落したあとで王と王后が輿に乗って入場するためであった。
しかし、攻撃がやんでいる間に城の守備兵たちが体制を立て直したため、後燕軍は城を落とすことができずに引き上げた。
15年(406年)秋7月、イナゴと旱魃の被害に見舞われた。
冬12月、慕容熙が、契丹を攻撃した。陘北(山西省)まで進軍したが、契丹兵の多さに恐れをなし、装備を捨てて撤退した。
軽装備になった後燕軍は、高句麗に攻め込んだ。しかし、3000里余り行軍していたため、兵士も軍馬も疲弊していて、凍死する者が道に連なる状態だった。
木底城(遼寧省撫順)を攻撃したが、勝てずに帰って行った。
16年(407年)春2月、宮殿を修築した。
17年(408年)春3月、王は北燕(五胡十六国のひとつ)に遣使し、北燕皇帝の慕容雲が同族であることを述べた。
慕容雲は、侍御史の李抜を返礼使として派遣した。
慕容雲の祖父である高和は高句麗の分家にあたり、自ら高陽氏の末裔と称し、高を氏とした。
慕容宝は高雲を太子とした。高雲は武芸に優れ、当時太子だった慕容宝に仕えた。慕容宝は、高雲を養子にして慕容の姓を与え、後に太子とした。
18年(409年)夏4月、王子の巨連を太子とした。
秋7月、国の東部に禿山城など6城を築き、平壌の住民を移住させた。
秋8月、王は南方を巡察した。
22年(413年)冬10月、王が薨去した。諡号を広開土王とした。