54年(466年)春3月、北魏に朝貢した。
北魏の文明太后が高句麗王に対して、顕祖献文帝の後宮が未整備なのを理由に、王女を差し出すよう命じた。
王は、上奏文を奉って報告した。
『娘は皆嫁いでいるので、王弟の娘を送ることで答えにさせていただきたく存じます』
文明太后はこれを許し、安楽王の真や尚書の李敷たちを派遣し、国境で結納の品を渡した。
ある者が王に勧めて言った。
「昔、魏は燕と婚姻を結びましたが、しばらくして燕を滅ぼしました。それは魏の使者が燕の地理を熟知することができたためでございます。燕の失策を鑑みるに、何か言い訳を考えて辞退されるのがよろしいかと存じます」
王は、送り出す予定の娘が死んでしまったと上書した。北魏は、高句麗が嘘を吐いているのではないかと疑い、仮散騎常侍の程駿を派遣して厳しく問い詰めた。
「その娘が本当に死んだのなら、あらためて王族から選んでもかまわない」
王が言った。
「もし天子様が前の過ちをお許しくださるのでしたら、勅令を謹んで拝受いたします」
その後、顕祖献文帝が崩御したため、この話は立ち消えとなった。
55年(467年)春2月、北魏に朝貢した。
56年(468年)春2月、王は靺鞨(満州にいた狩猟系民族)の兵1万を率い、新羅の悉直州城(江原道三陟)を陥落させた。
夏4月、北魏に朝貢した。
57年(469年)春2月、北魏に朝貢した。
秋8月、百済兵が、南辺に侵入した。
58年(470年)春2月、北魏に朝貢した。
59年(471年)秋9月、高句麗民の奴各たちが北魏に投降した。北魏皇帝は家と畑を下賜した。北魏の高文帝(第7代皇帝)の延興元年のことである。