【第20代】長寿王(巨連)[20-6]

 60年(472年)春2月、北魏に朝貢した。
秋7月、北魏に朝貢した。このときから献上する朝貢品が2倍になり、下賜品がいくばくか増えた。

 61年(473年)春2月、北魏に朝貢した。
 秋8月、北魏に朝貢した。

 62年(474年)春2月、北魏に朝貢した。
 秋7月、北魏に朝貢した。
 宋に朝貢した。

 63年(475年)春2月、北魏に朝貢した。
 秋8月、北魏に朝貢した。
 秋9月、王は、3万の兵を率いて百済に侵攻し、王都の漢城(京畿道南漢山)を陥落させ、百済王の扶餘慶(第21代蓋鹵王)を惨殺し、男女8000人を捕虜にして連れ帰った。

 64年(476年)春2月、北魏に朝貢した。
 秋7月、北魏に朝貢した。
 秋9月、北魏に朝貢した。

 65年(477年)春2月、北魏に朝貢した。
 秋9月、北魏に朝貢した。

 66年(478年)、宋に朝貢した。
 百済の燕信が、投降して来た。

 67年(479年)春3月、北魏に朝貢した。
 秋9月、北魏に朝貢した。

 68年(480年)夏4月、南斉太祖の蕭道成が、高句麗王を『驃騎大将軍』に封じた。
 王は餘奴たちを斉に派遣して朝貢させようとしたが、光州(山東省煙台市莱州市)の人が海上で餘奴たちを捕まえて魏の王宮に送った。
 北魏の高文帝は詔をして、高句麗王を責めて言った。
『蕭道成は自ら君主を殺害し、長江の南で王位に就いている。朕は宋を再興して劉氏に王統を継がせるつもりである。
 卿(高句麗王)は越境外交を行い、遠方の逆賊(南斉)と通じようとしている。藩臣(高句麗王)が守るべき義といえるのか。
 一度の過ちで旧交を断つつもりはない。卿の使者は藩(高句麗)に帰す。心の広さを感じて反省し朕の教えに謹んで従い、国を安寧にし、動静を逐次報告せよ』

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