【第22代】安臧王(興安)

 安臧王(在位:519~531年)は、諱を興安という。文咨明王の長男である。文咨明王7年(498年)に皇太子となり、文咨明王28年(519年)に文咨明王が薨去したため即位した。

 2年(520年)春正月、梁に朝貢した。
 春2月、梁の高祖は王を『寧東将軍・都督営平二州諸軍事・高句麗王』に封じ、使者として江注盛を派遣し、王に衣冠と剣佩を下賜させたが、北魏の兵が海上で一行を捕らえ魏の都である洛陽へ連れ去った。北魏は王を『安東将軍・領護東夷校都尉・遼東郡開国公・高句麗王』に封じた。
 秋9月、梁に朝貢した。

 3年(521年)夏4月、王は卒本へ行幸し、始祖廟を祭った。
 夏5月、王が卒本から都に戻った。帰り道にある村々の貧民に1人1斛の穀物を与えた。

 5年(523年)春、旱魃にみまわれた。
 秋8月、百済に派兵した。
 冬10月、飢饉のため国倉を開き、民に穀物を与えて救った。
 冬11月、北魏に朝貢し、良馬10匹を献上した。

 8年(526年)春3月、梁に朝貢した。

 9年(527年)冬11月、梁に朝貢した。

 11年(529年)春3月、王は黄城(北朝鮮平壌)の東で田猟をした。
 冬10月、王は、百済と五谷(黄海道瑞興)で交戦して勝利した。2000人を殺害もしくは捕虜とした。

 13年(531年)夏5月、王が薨去したので、諡号を安臧王とした。
 この年は梁の中大通3年、北魏の普泰元年である。『梁書』には普通7年(526年)に安臧王が崩御したと記されているが、これは誤りである。

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