【第23代】安原王(宝延)

 安原王(在位:531~545年)は、諱を宝延という。安臧王の弟(中国の諸史料では息子としている)である。身長が7尺5寸もあり肝も太かったため、安臧王は宝延を可愛がった。安臧王は在位13年で薨去したが、世継ぎがいなかったため宝延が即位した。
 梁の高祖が詔して、安臧王の爵位を安原王に継がせた。

 2年(532年)春3月、北魏の皇帝が王を『使持節・散騎常侍・領護東夷校都尉・遼東郡開国公・高句麗王』に封じ、衣冠と車旗飾りを下賜した。
 夏4月、梁に朝貢した。
 夏6月、北魏に朝貢した。
 冬11月、梁に朝貢した。

 3年(533年)春正月、王子の平成を皇太子とした。
 春2月、北魏に朝貢した。

【注:534年、北魏が滅んで東魏が興る】

 4年(534年)、東魏の孝静帝(初代皇帝)は王に『驃騎大将軍』の称号を加増した。北魏に朝貢した。

 5年(535年)春2月、梁に朝貢した。
 夏5月、南部で洪水が発生し、家屋が沈んだり流されたりして200余人が死亡した。
冬10月、地震があった。
 冬12月、落雷があり、疫病が大流行した。

6年(536年)春夏、大旱魃になった。王は使者を派遣して飢餓民のために尽くした。
秋8月、イナゴが大発生した。東魏に朝貢した。

 7年(年537)春3月、王は行幸し、自ら飢餓民を励まし施しを与えた。
 冬12月、東魏に朝貢した。

 10年(540年)秋9月、百済軍が牛山城を包囲した。王は、騎馬の精鋭5000を派遣して百済を討ち負かした。
 冬12月、東魏に朝貢した。

 11年(541年)春3月、梁に朝貢した。

 12年(542年)春3月、強風が吹き荒れ、木々を倒し瓦を飛ばした。
 夏4月、雹が降った。
 冬12月、東魏に朝貢した。

 13年(543年)冬11月、東魏に朝貢した。

 14年(544年)冬11月、東魏に朝貢した。

 15年(545年)春3月、王が薨去したので、諡号を安原王とした。
 この年は梁の大同11年、東魏の武定3年である。『梁書』には安原王が大清2年(548年)に崩御したと記されているが、これは誤りである。

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