陽原王(陽崗上好王ともいう。在位:545~559年)は、諱を平成という。安原王の長男である。生まれたときから知力にたけ、成長すると武力も人並み以上になった。安原王3年(533年)に皇太子となり、安原王15年(545年)に安原王が薨去したため、皇太子の平成が即位した。
元年(545年)冬12月、東魏に朝貢した。
2年(546年)夏4月、雹が降った。
冬11月、東魏に朝貢した。
3年(547年)、東魏に朝貢した。
秋7月、白巌城(中国遼寧省遼陽)を改築し、新城(中国遼寧省撫順)を修築した。
4年(548年)、東魏に朝貢した。
春正月、王は濊軍6000を出撃させて、百済の独山城(忠清北道忠清)を攻めたが、新羅の将軍の朱珍が救援にやって来たため、勝てずに退却した。
5年(549年)、東魏に朝貢した。
【注:550年、東魏が滅んで北斉が興る】
6年(550年)春正月、百済の道薩城(忠清北道槐山)を陥落させた。
春3月、百済の金峴城(忠清北道鏡川)を攻撃したが、新羅に道薩城と金峴城を奪われた。
夏6月、北斉に朝貢した。
秋9月、北斉の顕祖文宣帝が、王を『使持節・侍中・驃騎大将軍・領護東夷校都尉・遼東郡開国公・高句麗王』に封じた。
7年(551年)夏5月、北斉に朝貢した。
秋9月、突厥(モンゴル高原を支配した遊牧国家)の軍が我が国に侵入した。新城を包囲したが勝利できなかったため、次に白巌城を攻撃した。
王は将軍の高紇に1万の兵を率いさせて防戦させた。我が軍は突厥軍を撃破し、千余人を殺害もしくは捕虜とした。しかし、新羅に侵入され、十の城を奪われた。
8年(552年)、長安城(北朝鮮平壌)を築いた。
10年(554年)冬、百済の熊川城(忠清南道公州)を攻めたが勝てなかった。
11年(555年)、北斉に朝貢した。
【注:557年、梁が滅び陳が興る】
13年(557年)夏4月、王子の陽成を皇太子とし、臣下を内裏に集めて祝宴を催した。
冬10月、丸都城主の朱理が反乱を起こして殺された。
15年(559年)春3月、王が薨去したので、諡号を陽原王とした。