26年(584年)春、隋に朝貢した。
夏4月、隋の高祖文帝が、我が国の使者を大興殿で供応した。
27年(585年)冬12月、陳に朝貢した。
28年(586年)、都を長安城(北朝鮮平壌)に移した。
【注:589年、隋が陳を滅ぼし中国を統一する】
32年(590年)、王は、陳が滅んだことを聞いて大いに恐れた。兵具を整え、兵糧を蓄え、守りを固めた。
隋の高祖文帝が、王に詔して『藩屏と言いながら忠誠の尽くし方が足りない』となじった。
『いくら土地が狭く人が少ないといっても、現王を退位させたら空位にしておくわけにはいかず、新たに役人を任命して高句麗を治めさせる必要がある。
王が心を入れ替え行いを改め我が国の定めに従うなら、朕の忠臣となるわけだから、良官を派遣する道理はない。
王は遼河が広いと思っているが、長江とは比べものにならない。王の国には陳国ほどの民が住んでいるのだろうか。
朕が王を許さず国を滅ぼそうと思えば、一将軍に命じるだけで十分で、大軍を動員する必要もない。王の改心を待つ』
王は、詔書を読み隋を恐れた。上表文を奉って陳謝の意を表そうと思ったが、上表文が隋に送られることはなかった。
冬10月、王が薨去したので、諡号を平原王とした。
この年は開皇10年である。『隋書』や『資治通鑑』では詔の年を開皇17年(597年)としているが、これは誤りである。