三田渡碑

 ソウル特別市養室のロッテワールド近くに『三田渡碑』が立っている。正式名称は『大清皇帝功徳碑』という。碑文の内容から韓国では『恥辱碑』と呼ばれている。朝鮮が清に降伏したことを記念して1639年、ソウルの三田に建てられた石碑で、中国語、満州語、モンゴル語で彫られており、言語によって内容が多少異なる。
 1626年、後金の皇帝として即位した太宗ホンタイジは、朝鮮の仁祖が反抗的な態度をとったため、翌1627年に三万の兵を朝鮮へ送って首都漢城を陥れ、仁祖を江華島へ追いやった。韓国ではこの事件を『丁卯胡乱』という。
 1636年、ホンタイジはモンゴル大王の玉璽を手に入れ、瀋陽で清の建国を宣言した。しかし、朝鮮がホンタイジの皇帝即位を認めず親明政策をとったため、翌1637年、ホンタイジは10万の兵を率いて親征し、朝鮮を屈服させた。韓国ではこの事件を『丙子胡乱』という。
 降伏後、ソウルの三田で儀式が執り行われ、仁祖は三跪九叩頭の礼(中国清朝皇帝の前でとる臣下の礼)で清朝皇帝に服従を誓わされた。
 それから256年後の1895年、日本が日清戦争で清に勝利したため、朝鮮は清の冊封から解放され、『三田渡碑』は倒されて埋められた。その後、掘り返されたり埋め戻されたりしたのち、韓国の史跡第101号に指定され今日に至っている。
 かなり屈辱的なことが書かれているというので中国語の原文(漢文)を読んでみたが、朝鮮王が自分のことを『小邦君臣』とへりくだって呼んだりはしているものの、戦勝碑としてはいたって普通で、占領国を侮辱しているような表現もない。元寇のとき皇帝フビライが鎌倉幕府に送った国書を、東洋史学者が中国皇帝の詔にしては丁寧な表現だと考えるのに対し、日本史研究者が無礼で傲慢な文章だと憤慨する状況と似ている。
 漢文は簡潔に書かれているから、恣意的に翻訳することができる。韓国語と日本語になっている要約を読んで、屈辱感が増すよう誇張気味に訳されていることに気づいた。清は満州族による征服王朝だから、三田渡碑も満州語を直訳し、それを批評すべきではないだろうか。

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