現在、漢字には大きく分けて、台湾や香港で使われている「正体字」、日本で使われている「日本漢字」、中国で使われている「簡体字」の3種類がある。
漢字は約3300年前の殷(商)の時代に使用が始まり、さまざまな文字が考案されたが、時代が下ると異体字、俗字を含め10万近くの漢字ができてしまった。これでは不便極まりないということで、清の時代に康熙帝(在位:1661-1722年)が標準となる文字を定め、『康煕字典』という字書を編纂した。そして、ここに収録された漢字が正体字としてアジア中に普及していった。
日本では第二次世界大戦後に文字改革が行われ、漢字の画数を全体的に減らした。「鐵→鉄」「傳→伝」「單→単」といった具合だ。これらが日本でしか使われない日本漢字になった。
中国では共産党が政権を握ると、文盲率を下げることを目的に字体を簡略化した「簡体字」を考案して普及をはかった。正体字は『繁体字』と呼ばれるようになり、メディアや公式文書での使用が禁止された。「国」や「学」など日本漢字と同じ簡体字があるのは、簡体字を制定するとき中国側が日本漢字を参考にしたからだ。
しかし、台湾、香港、華人居住地域ではもっぱら正体字が使用されていて、北京官話(マンダリン)を基にした「標準中国語」を学習するとき以外に簡体字で綴ることは少ない。
中国政府の簡体字政策が破綻しているのは、中国南部を歩いてみればわかる。街のいたるところに正体字の看板が氾濫していて、簡体字による文字の統一が掛け声倒れになっている。中国が簡体字の普及に固執しているのは、ただ単に中国共産党の面子のためでしかない。「正体字は学習するのが大変で文盲率を下げる妨げになる」というのが政府の公式見解なのだが、それなら香港や台湾で漢字を覚えられないために文盲になった人がいったいどれくらいいるのだろう。答えは言うまでもない。
通学して普通に勉強すれば、日常生活で必要な漢字は必ず覚えられる。日常的に使用する漢字の数はおおよそ1000字。2000字知っていれば新聞が読めるし、3000字理解できれば字書を引きながら古典を鑑賞することも可能だ。
本当に漢字学習の負担をなくしたいなら、ベトナムのように漢字を捨ててアルファベットにする(フランス語式の表記方法を採用している)しかない。日本と中国が実行した文字の画数を減らすという方法は、弊害ばかり多くてメリットが少ない。
韓国で使われている漢字も正体字だが、1945年以降、民族文字であるハングル(訓民正音)を普及させるため漢字の使用を大幅に制限した。そのため、戦後に教育を受けた多くの韓国人が漢字を使いこなすことができずにいる。大卒の40代でも新聞の見出しに使われる基礎漢字が理解できる程度だ。
ボクが朝鮮語(韓国語)を習いはじめたのは1980年代の前半だが、その頃の文字はすべてハングルで、漢字混じりの文章は書かなかった。漢字の語彙は音読みしてハングルで記した。いまの北朝鮮と同じような状態だった。それにしても漢文の古典をハングルで読むのには苦労させられた。漢字で表記されていればすぐ理解できる語彙でも、漢字には同音異義語が多いから頭の中で正しい漢字に変換するのにずいぶん時間がかかった。
韓国人が中国へ留学すると漢字で苦労することになる。漢字文化圏ということで日本人と韓国人をいっしょにしてクラス編成することも多い。欧米人やアフリカ人は基本漢字の書き方から学習する必要があるからだ。しかし、韓国の留学生は漢字を見慣れていても、日本人のように自由に読み書きできるわけではない。こんなところにも漢字教育否定の弊害が出ていると思う。
現在の韓国では行き過ぎたハングル教育を反省し、小中学校で漢字教育が行われている。しかし、漢字を学ばないまま大人になってしまった人はもうどうすることもできない。東アジアの伝統文化を学ぶには、漢字を使いこなすことが必須条件だ。韓国でハングルが普及したのは日本統治時代に入ってからのこと。20世紀初頭まで公式記録はすべて漢字、しかも中国語だった。万葉仮名のような発音用漢字もあったが一般には普及しなかった。
正体字、簡体字、日本漢字と国によって別々の字体を使用しているのが現状だが、コンピュータの世界ではいま別の方法で漢字の統合が進んでいる。
ローマ字やギリシア文字は1バイト文字、漢字、ハングル、平仮名などは2バイト文字に分類される。各文字に専用の文字コードが割り当てられているが、2バイト文字は各国が勝手に割り当てていたため、ひとつのコードに複数の文字が存在し、複数言語を同時に表示することができなかった。そのため、新たにユニコードという規格が提唱され、世界中の文字記号を重複しないコードで処理することにした。たとえば、ハングルは1996年に大幅なコード変更を行ってユニコードに移行している。
コンピュータの漢字は、字体を統一するのではなく、すべての漢字をコンピュータで表示する方向で努力がなされている。そのおかげで、現在は正体字、日本漢字、簡体字を同一ファイル上に表示することができる。俗字も次々と登録されていて、使いたい漢字を自由に入力できる環境が日々整備されている。
よく考えてみれば、自分の手で漢字を書く機会は少なくなっている。文章の読み書きもパソコンや携帯機器で行うことが多い。ということは、各国の思惑で無理に漢字を統一させる必要はないのではないだろう。みんなが使っているうちに自然に統合されていく。こんなかたちが理想だと思う。