中国の史書に見える高句麗王の比定[1]

 『宋書』には倭の王として讚・珍・済・興・武の五王が記載されている。これらの王は『倭の五王』として有名だが、高句麗の王も中国のさまざまな史書に中国名で記録されている。

 中国の史書に実在する高句麗王として最初に登場するのは、宮だ。

■105年、宮が再び遼東に侵入した。
■111年、宮が玄莵郡への帰属を願い出た。
■121年、宮が崩御し、遂成が即位した。

 『三国史記』掲載の大祖大王(国祖王、於漱)が宮に当たると考えられるが、『三国史記高句麗本紀』では在位53~146年となっており、在位年がかなり引き延ばされている。『後漢書』の記述からすると、宮の在位は100年頃~121年と思われる。
 『日本書紀』でも雄略天皇以前は在位年が引き延ばされているが、高句麗の王暦でおもしろいのは、在位年の引き延ばしが開国年代を古くするための操作ではないことだ。
 『三国史記』では朱蒙による建国を紀元前37年のこととしているが、建国の地である五女山城(中国遼寧省本渓市桓仁満族自治県)にある都城や王墓を発掘調査したところ、紀元前3世紀の遺跡群であることが分かった。『三国史記』では朱蒙から大祖大王まで6代を数えるだけだが、実際には20人以上の王が立ったと思われる。
 『三国史記』が高句麗の建国年を新しく設定し直したのには理由がある。新羅と百済の建国年を遡らせて三国が同じ時期にできたことにしたかったのだが、中国には古い歴史書がたくさんあるため、ニ国を高句麗に合わせることができなかったのだ。
 『魏書高句麗伝』には、初代が朱蒙王、第二代が閭達王、第三代が如栗王、第四代が莫来王で、その子孫が宮になると記されている。王名から判断すると、如栗王が類利とも称された第二代瑠璃明王(如栗も類利も瑠璃もルリと読める)、莫来王が無恤とも称された第三代大武神王と考えられる。閭達王は『三国史記』に該当する王がおらず、やはり『三国史記』では何人かの王が省略されているようだ。

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