宮以降の数代は史書によって王暦が異なる。
『後漢書高句麗伝』では、宮の子が遂成で、遂成の子が伯固となっている(宮→遂成→伯固)が、『三国志高句麗伝』では、宮の子が伯固となっている(宮→伯固)。また、『三国志高句麗伝』で伯固王が169~177年頃在位していたことが分かるから、それを三国史記の在位年に当てはめると、第八代の新大王になる。別名が伯固であるところからも、伯固王が新大王である可能性が高い。そうすると、『後漢書』に見える遂成王は146~165年まで在位したとされる次大王(諱が遂成)になる。ただし、『三国史記』が中国の史書に合わせて記述した可能性もある。
『三国史記』は大祖大王、次大王、新大王を三兄弟だと記しているが、100年頃~180年頃までの約80年間を実の三兄弟で継いだというのはにわかには信じがたい。『後漢書』には「132年に遂成が死に伯固が即位した」と書かれており、この記述が正しいとすると、末弟の伯固が50年近く在位したことになる。次大王、新大王という王名も、他の王名と比べるといかにもとってつけたような名前だ。
伯固の子の伊夷摸が故国川王(国壌王、男武)であることは間違いなさそうだ。『三国史記』の分註に「名を伊夷摸ともいう」と記されている。中国風の王名を持たないのは、国が内乱状態で中国から正式な冊封を受けられなかったからだろう。
問題は位宮をどの王に比定するかだ。244年に位宮王時代の高句麗が玄莵郡の母丘倹に壊滅させられたことは特筆に価する事件だったらしく、『魏書』『北史』『隋書』『梁書』に位宮の名が登場する。
■238年、司馬仲達は大軍を率いて公孫淵を討伐し、位宮は司馬王に加勢するため千人の兵を援軍に向かわせた。(梁書高句麗伝)
■244年、魏の幽州刺史の毋丘倹が兵を率いて玄菟を出て位宮の討伐に向かった。位宮は歩兵や騎兵二万余りで迎え撃ち沸流で大戦となった。位宮が敗走すると、毋丘倹軍は峠まで追い丸都山にのぼった。都城で殺戮し、位宮は妻子を連れて遠くに逃げた。(梁書高句麗伝)
■245年、毋丘倹が再び位宮を討つと、位宮は沃阻に逃げ込んだ。(梁書高句麗伝)