『三国史記』は第10代山上王の諱を位宮とする一方で、本文では第11代東川王時代に王都が母丘倹に陥落させられたと書いていて記述に混乱が見られる。
『三国史記』の在位年代を信用するなら、位宮は東川王になるが、そうすると山上王の存在が浮いてしまう。山上王記を読むと、王族の内紛に関するエピソードが大部分を占めていることが分かる。山上王は実在しなかったのだろうか。もしくは敗戦による混乱でこの時代の記録がほとんど残っておらず、正確な記述ができなかったのだろうか。疑問は尽きない。
位宮の次に現れる王名は乙弗利だが、これは美川王(好壌王、乙弗、憂弗)に比定できる。『魏書』や『北史』によると、位宮と乙弗利の間に名は不明ながら3人の王が即位したらしいので、この3王は中川王、烽上王、西川王だと思われる。ただ、『三国史記』が『魏書』と『北史』の記述に合わせて編纂された可能性も棄てきれない。
位宮の子として中国史書に登場する釗は、故国原王(国崗上王、斯由)で間違いないだろう。この王は342年に慕容晃の軍に大敗し、実母と妻ばかりか父王の遺骸まで持ち去られている。
釗の次に王名を確定できるのは、璉だ。璉は第20代長寿王(巨連)のことで、413年に即位して491年に崩御するまで数多くの記録が残されている。
『晋書』には413年に倭使が高句麗使とともに入貢したことが記録されているが、この高句麗使は長寿王の即位を報告するために派遣されたもので、このときの倭王は讃とされている。
長寿王の前に即位していた安の比定はかなり難しい。
■385年、高句麗が遼東と玄菟郡を攻めた。慕容垂は弟の農に高句麗を攻撃させ二郡を取り戻した。垂が死に子の宝が立った。高句麗王の安を平州牧に任じ、遼東・帯方の二国王に封じた。安ははじめに長史・司馬・参軍官を置き、後に遼東郡を占領した。(梁書高句麗伝)