夏王朝は実在したか[2]

 日本や欧米で「文字資料で証明されないかぎり夏王朝の存在を認めるわけにはいかない」と主張している研究者が少なくないが、漢字の使用は殷代後期までしか遡ることができない。そこで考古学史料の登場となる。
 近年の中原地域(山東省・河南省・山西省・陝西省を中心としたエリア)遺跡調査の結果、山西省臨汾市にある『陶寺遺跡』や河南省偃師市にある『二里頭遺跡』のように、初期国家と呼んでも差し支えない規模の城国があったことが判明した。
 問題はそれを国家と認めてよいかどうかなのだが、周王朝のような規模と組織をもって国家とするなら、夏王朝は存在しなかったことになる。
 たとえば、3~4世紀に栄えた奈良の纒向遺跡は初期国家だろうか? 吉備や尾張などの外来土器が大量に出土するし、都市としての体裁は整っているが、この時期にヤマト王権が成立していたとして問題ないだろうか? 奈良時代や平安時代の支配地域と統治制度を基準とするなら、纒向に国家があったとはいえない。しかし、王権が誕生したばかりの段階だったとみなすなら、最初期段階の国家だと認めてもよいのではないだろうか。
 考古学史料だけで政治システムを解明することは不可能だ。城郭都市の規模、墓制の変遷、出土物の状況などから想像するしかないし、統治範囲にしても類似文化の広がりなどから憶測するほかない。各文化の絶対年代を遺跡の遺物から特定することは困難で、土器編年から相対的に割り出すしか方法がない。
 『二里岡文化』が殷王朝前期の文化に相当するため、その直前にあたる『二里頭文化』が夏王朝文化に比定されている。したがって、新たな考古学発見により現在の定説が覆される可能性があることは知っておきたい。
 河南省鄭州市を中心とした河南省中部では、土器様式が新石器時代中期から《大河村文化→廟底溝二期文化→王湾三期文化→二里頭文化→二里岡文化》と途切れることなく続く。いっぽう陝西省南部の渭河流域(後の西周王朝の本拠地)では《老官台文化→仰韶文化→客省荘二期文化》と引き継がれている。

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