二里頭遺跡の二里頭文化は、二里頭遺跡の土器編年をもとにして4期に分類されているが、その二期層(二里頭文化ニ期)で宮殿が発見され、三期層(二里頭文化三期)では宮殿のほかに城壁や道路が発掘され祭祀用の青銅器も出土した。
以上のような発掘成果から、『二里頭遺跡』は夏王朝最後の都で、『二里頭文化ニ期』の段階で国家としての体裁を整え、『二里頭文化四期』の時代に『漳河型先商文化』から発展した『二里岡文化』の勢力(殷王朝)に駆逐されたとする説が、中国の考古学では有力だ。
土器様式から推測すると、二里頭文化の影響下にあったエリアは鄭州を中心とする黄河中流域(汾河・伊河・洛河・潁河・汝河の流域)のみで、夏王朝の存在を認めても、その国家規模は春秋時代の一国程度だったようだ。
また、河南省新密市にある『新砦遺跡』は、924メートルの北壁と東西1500メートルの堀をもつ大城址だが、二里頭文化初期に廃絶している。『陶寺遺跡』の大城址も同時期に破壊を受けて衰退している。このことから、この時期に黄河中流域で中原統一に向けた大規模な戦争があり、夏が勝ち残って中国最初の王朝を開いたと主張する歴史学者がいる。夏王朝の都が新砦遺跡から二里頭遺跡に移ったとする専門家もいる。
いまのところ、二里頭遺跡を夏王朝の都、二里岡遺跡を殷王朝の都とする説が有力だが、決定的な証拠があるわけではない。考古学的に辻褄のよく合う“ストーリー”が定説化しているともいえる。断代にしても、土器編年という専門家以外には理解するのが困難な傍証しかない。
三期には二里頭文化が中原全体に広まってゆく。そのため、鄭州一帯の中心部を二里頭類型、東部を南関外類型、西部を南沙村類型、南部を下王崗類型、北部を東下憑類型と、全エリアを5地域に分けている。
夏王朝は実在したか[3]
