広開土王碑は、好太王碑とも呼ばれている石碑。414年に高句麗の長寿王(394~491年)が先王であり父でもある広開土王(375~412年)のために立てた。
石碑の存在は昔から知られていたが、碑文の内容が判明したのは1882年のこと。知県の陳士芸が石碑を覆っていた蔓草や苔を取り除いて拓本をとったことがきっかけとなり、書家や金石学者の間で知られるようになった。
1884年、清国駐在武官だった酒匂景信中尉が、現地で購入した拓本(墨水郭填本)を日本へ持ち帰ったことにより、謎の4世紀を知る貴重な史料であることが分かり、政府の要請で複数の漢文学者が読解にあたった。
広開土王碑は、角柱状の自然石で、材質は角礫凝灰岩。高さは6.3メートル。基底部は142センチ×130センチ×192センチ×142センチ。固い岩盤の上に高さ2メートルほどの花崗岩台座が置かれ、その上に石碑が載せられている。
石碑の四面にわたって1802文字が刻まれている。文章は正格漢文で書体は隷書体だが、この時代は隷書体から楷書体への移行期に当たるため、字形は判読できるが意味を理解できない文字が少なからずある。また、高句麗独自のものとおもわれる文字も存在する。
私が広開土王碑の存在を知ったのは40年ほど前。実際に集安を訪ねて実物を見学した。現在は遺跡群が世界遺産に指定され、碑面が防弾ガラスで覆われて厳重に管理されているため、遠くから眺めることしかできないが、1980年代はただの石碑と思われていたので、石碑に触れて間近で観察することができた。ただ、石碑にはすでに石灰や溶剤が塗布されていて文字の判読が古い拓本よりも難しいし、石質が脆いため碑面を復元することもできない。また、中韓で高句麗帰属論争が起こったため、中国側のガードが相当固くなっている。
とはいえ、古代史ファンには魅力的な一次史料だと思うので、私なりに解読したものを書き出してみた。
漢字はすべて現在使用されている楷書に置き換え、判読不能もしくは意味不明の文字は“□”とした。ただし、研究者によって“□”の数が異るため、意見が分かれている部分に関しては【字解】で説明を加えた。また、句読点は私がほどこした。