【碑文】
□□□命駕、巡車南下。路由夫餘奄利大水。王臨津言曰、我是皇天之子、母河伯女郎、鄒牟王、爲我連葭浮龜。應聲即爲、連葭浮龜、然後造渡。於沸流谷忽本西城山上、而建都焉。
【訳文】
(夫餘を離れた鄒牟王は)馬車を用意させ、(それに乗って一行は)巡り巡って南下した。(進む)道筋は夫餘の奄利大水に従った。鄒牟王は川の渡し場で言った。
「我は天をつかさどる神の子であり母が河神娘の鄒牟王である。我のために葦を連ね亀を浮かばせよ」
(すると川の霊が)すぐに呼びかけに応じ、葦を連らせ亀が浮ばせた。それから(浮き橋を)造り、(王の一行を対岸へ)渡らせた。沸流谷にある忽本という地の西方に山城を築いて都とした。
【解説】
建国神話の一エピソード。『三国史記』高句麗本紀によると、烏伊、摩離、陝父という三人の家来を連れた王は、夫餘の追っ手に捕まりそうになったが、魚やスッポンが一列に並んで浮き橋をつくってくれたため九死に一生を得たという。
『沸流』は沸流川とも呼ばれ、鴨緑江の支流である渾江のこと。現在は中国吉林省白山市渾江区を流れている。
『忽本』は卒本ともいい、現在の中国遼寧省本渓市桓仁満族自治県内にある。高句麗が都にした山城は“卒本城”もしくは“紇升骨城”といい、現在は“五女山山城”と呼ばれている。国土が拡大して国内城に遷都するまで、ここが初期高句麗の本拠地だった。
『巡』には“視察してまわる”という意味もあるが、ここでは“(夫餘兵に追われて)逃げ回る、ためらい巡る”といったニュアンスで使われている。
『車』は具体的には馬車のことだが、王と家来だけなら馬に乗って逃げればよいので、一行には女性、子供、老人たちが含まれていたのだろう。
【字解】
『命駕巡車』の前には不明文字が6字あり、その区切り方で意味が変わってくる。
『命駕』は“乗り物を用意させる”という意味なので、それをさせるのは王しかおらず、この前には“王”“太王”“鄒牟王”などが来るはずだが、ここでは“鄒牟王”としておいた。
ただ、前の文章を『有聖□』で区切った場合、『命駕』の前に5文字あることになり、“夫餘が追って来たので王は”という意味を表す文字列が入る可能性がある。