広開土王碑文を読む[8]

【碑文】
永樂五年歲在乙未、王以稗麗不□□□躬率往討。過富山負山、至鹽水上、破其三部洛六七百營。牛馬羣羊不可稱數。於是旋駕、因過□平道、東來、□城、力城、北豊、五備□、遊觀土境、田獵而還。

【訳文】
 永楽5年乙未の年、稗麗が…しないので、広開土王は自ら兵を率いて討伐した。富山と負山を過ぎて塩水のほとりに至り、その3部落、600~700の営を破った。(獲得した)牛馬や羊の群れは数え切れなかった。そこで馬車を巡らせ、因って…平道、東來、…城、力城、北豊、五備…を過ぎ、国境を見て回り、田猟して帰還した。

【解説】
 ここから広開土王の功績が年代順に語られる。最初は東方の稗麗を討った話。
 永楽5年は395年。永楽という年号は広開土王時代のもので、即位年=永楽元年。高句麗で自国の年号を使用したのは、後にも先にも広開土王のみ。他の高句麗王はみな中国の年号を採用している。
 稗麗は高句麗の北に盤踞していた契丹系の民族といわれているが詳細は不明。
 『営』は遊牧民の家族集団のこと。彼らは営単位で移動しながら放牧を行う。ひとつの営で数人から数十人が暮らす。
 『田猟』は狩猟のことだが、王が行う田猟には視察や交流の意味が含まれ、古代中国では国を治めるためにかかすことのできない重要行事とされていた。

【字解】
 『王以稗麗不』に続く1字は、“息”“貢”と読む研究者が多い。次の1字は完全に判別不能。最後の1字は“又”“旅”などと読まれる。ただし、最初期の拓本を使用した解釈では3字とも判読不可能とされている。
 『因過』の後の文字は、字形ははっきりしているが意味をとることができない。上部は“加”、下部は“工”“丂”に見える。“駕”と釈する専門家が多い。
 『東來』の後の文字は、碑面でも拓本でも読むことができない。
 『五備』の後の文字は欠字ではない。ケモノ偏に上が“山”下が“白”と読めるが、どの漢字に相当するのか不明。高句麗独自の漢字である可能性もある。

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