【碑文】
百殘新羅舊是屬民、由來朝貢。而倭以辛卯年、來渡海、破百殘□□□羅、以爲臣民。
【訳文】
百済と新羅は昔から(高句麗の)属民で、もとより朝貢していた。倭は391年に海を渡って百済を破り、新羅を…し、(両国の民を)臣民にしてしまった。
【字解】
『來渡海』の“海”に関して、この文字は“每”であるという意見が一部にある。「ツクリの“每”がサンズイ偏に対して大きく、サンズイに見えるのは傷に過ぎない」。ちなみに《水谷釈文》では、この文字を判読不能としている。
『破百殘』に続く3字のうち最後の1字は、右側が“斤”に見えることや直後の漢字が“羅”であることから“新”と読まれている。ただし、字形は碑面、拓本ともに不鮮明。
最初の1字と次の1字は完全に判読不能だが、“随破”“亦討”などと動詞を当てる説と、“加羅”などの国名を填める説がある。
ここでは動詞説をとったが、名詞説に従った場合は『破百殘・加羅・新羅、以爲臣民』(百済、加羅、新羅を破って臣民とした)となる。当時の加羅(加耶)北部の国々は倭と仲が良くなかったようだから、このように解釈しても間違いではないだろう。
【解説】
広開土王碑文でもっとも有名かつ問題とされる部分。倭による朝鮮半島侵攻が記述されている。
『百殘』は百済のことで、高句麗が百済を卑下して使った国名。百済を属民と言っているが、故国原王が射殺される(371年)など、広開土王が登場するまでの数十年間は、高句麗が百済に圧迫される状況にあった。
碑文に登場する『倭』が大和政権を指すのか、それとも九州の豪族連合を指すのか、専門家によって見解が分かれている。『日本書紀』ではこの時期を神功皇后と応神天皇の時代に当てている。