【碑文】
以六年丙申、王躬率□軍、討□殘國軍。□□首攻取、壹八城、臼模盧城、各模盧城、幹弖利□、□□城、關彌城、牟盧城、彌沙城、□舎蔦城、阿旦城、古利城、□利城、雜珍城、奧利城、句牟城、古須耶羅城、頁□□、□□城、□而耶羅□□城、□□城、□□□豆奴城、沸□□利城、彌鄒城、也利城、太山韓城、掃加城、敦拔城、□□□□婁賣城、散〇城、那旦城、細城、牟婁城、□婁城、蘇灰城、燕婁城、析支利城、巖門□城、□城、□□□□□□□利城、就鄒城、□拔城、古牟婁城、閏奴城、貫奴城、彡□城、□□□□□盧城、仇天城、□□□□□其國城。
【訳文】
永楽6年、396年、広開土王は自ら軍を率い、百済の国軍を征伐した。…は初めに壹八城、臼模盧城、各模盧城、幹弖利城、…城、關彌城、牟盧城、彌沙城、…舎蔦城、阿旦城、古利城、…利城、雜珍城、奧利城、句牟城、古須耶羅城、頁…城、…城、…而耶羅…城、…城、…城、豆奴城、沸…利城、彌鄒城、也利城、太山韓城、掃加城、敦拔城、…城、婁賣城、散…城、那旦城、細城、牟婁城、…婁城、蘇灰城、燕婁城、析支利城、巖門…城、…城、…城、…城、…利城、就鄒城、…拔城、古牟婁城、閏奴城、貫奴城、彡…城、…城、…盧城、仇天城、…城を攻め取り、(最後に百済の王城である)国城を…した。
【解説】
396年に高句麗軍が百済の首都まで侵攻した記事。はじめに広開土王が親征して百済軍を討ったことが書かれ、その後に陥落させた城の名前40余りが列挙されている。
この時代、平安道まで高句麗の支配地になっていて、392年には黄海道延白郡にあった関彌城(碑文では“閣彌城”)を占拠しているから、ここに書かれている城は現在の黄海道から京畿道にかけてあったとおもわれる。
そして最後に王都である国城をどうにかしたことが記されているが、『其國城』の前の5文字が判読できないため、何をしたのかは想像するしかない。
この後の記述からすると、国城を陥落させたとおもわれる。当時の王城である漢山城は現在の京畿道広州市にあった。
『三国史記』の高句麗本紀と百済本紀には、395年秋の出来事として高句麗による百済攻撃が記されている。それによると、広開土王は自ら7000の兵を率いて浿水(礼成江)で戦い、百済兵8000が死亡している。碑文とは1年のずれがあるが、三国史記が記す広開土王の即位年にも1年の差違があるので、この出来事を396年のこととしても問題ないと思う。
【字解】
『以六年丙申王躬率』後の文字は読みづらいが、“水”と解する人が多く、そうすると高句麗が強力な水軍を持っていたことになる。“大”とする説もある。
『殘國軍』の前にくる一字は、“利”“伐”“滅”“科”などと解釈されているが、字形の判別は非常に困難なのが実情。
『首攻取』の前の2字は判読不能。