広開土王碑文を読む[15]

【碑文】
九年己亥、百殘違誓与倭和通。王巡下平穰。而新羅遣使、白王云。倭人滿其國境、潰破城池、以奴客爲民。歸王請命。太王□□稱其忠□。□遣使還告以□□。

【訳文】
 永楽9年、己亥の年(399年)、百済が誓いを破り、倭と和して通じた。広開土王は巡幸して平壌まで南下した。そこへ新羅が使者を遣し、(使者が)広開土王に申し上げるには、「倭人が国境に満ちあふれ、(防御用の)城壁や水濠を壊し崩し、弊国を我が物としております。王に帰服し、命令を請います」。広開土王は…し、その忠を褒めた。(広開土王は新羅に)使者を派遣し、(新羅の使者を)帰して…を告げさせた。

【字解】
 『太王』に続く2字はどちらも読みづらく、判読不能と判断する研究者が多いが、拓本を根拠に“恩後”と読む人もいる。《水谷釈文》は1字目を判読不能、2字目を“慈”とする。
 『稱其忠』後の文字は摩耗が酷い。おそらく“誠”“義”などの文字が入るのだろう。
 『遣使』の前に来る文字は、右側が“寺”のようにも見えるため“時”と解されるが、“斤”と判断して“新”を当てる人もいる。
 『還告以』後の1字はまったく読めない。その後の文字も判読しづらい。読む場合は“訐”“訴”“於”などと解されている。

【解説】
 百済の裏切りと倭の新羅攻撃を伝えている。
 北から高句麗に南から倭に攻められた百済は、亡国の危機に陥り、倭と和睦した上で援軍を要請した。
 阿莘王は漢江を渡って国土を回復しようとするが、首都での訓練すらままならず、徴税に喘ぐ住民が続々と新羅へ逃亡するありさまだった。
 『三国史記百済本紀』によると、397年5月に百済の阿莘王が倭に太子の腆支を人質として差し出している。『日本書紀』の応神天皇八年春三月条にも同様の記事が見られる。
 新羅の使者が広開土王に『以奴客爲民』と報告しているから、399年の時点ですでに一定のエリアを倭に占拠されていたことが分かる。
 『奴客』は新羅のことで、使者が謙遜語として使っている。“奴”は“臣”と同義で、北魏など華北にあった国々で使用された。
 『三国史記新羅本紀』によると、392年の正月に高句麗が使者を派遣してきた(おそらく服属と人質を要求してきたのだろう)ので、奈勿王は高句麗が強大であることを考慮し、実聖(後の実聖王)を人質として差し出した。
 391年に侵攻を開始した倭軍は、393年に新羅の王城を包囲している。『三国史記新羅本紀』によると、倭兵が内陸部まで侵入しているため籠城作戦しかとることができなかったという。
 “船を捨てて”と特筆しているから、いつもは船を使って上陸したうえで略奪して帰る倭兵が、このときは征服を目的として、城壁を打ち壊し堀を埋めたようだ。

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