【碑文】
十年庚子、敎遣步騎五萬、往救新羅。從男居城至新羅
城、倭滿其中。官軍方至、倭賊退□□□□□□□□來背
急追。至任那加羅從拔城、城即歸服。
安羅人戍兵拔新羅城□城。倭滿□潰城□□□□□□□
□□□□□□□□□□□□盡□□來。
安羅人戍兵滿□□□□□□□□□□□□□□□□□□
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
□□□□□□□□□□潰□□□□安羅人戍兵。
昔新羅寐錦未有身來□□□□□□□開土境好太王□□
□□寐錦□□僕勾□□□□朝貢。
【訳文】
永楽10年、庚子の年(400年)、(広開土王は)5万の歩兵と騎兵を派遣して新羅を救援した。男居城から新羅城まで、倭(兵)が満ちあふれていた。我が軍がまさに到着しようというとき、倭の賊軍は…して退いた。…して背いたので急いで追った。任那加羅の従抜城に至ったが、従抜城はすぐに帰服した。
安羅人の守備兵が新羅城と…城を占拠した。倭兵が満ちあふれ、…が〇九の城を潰し…ことごとく…して来た。
安羅人の守備兵が充ち満ちて…して…を潰して…安羅人の守備兵を…した。
以前は新羅の君主がやって来ることなどなかったが、国𦊆上広開土境好太王が…して、新羅の君主が…して、奴僕は…を勾引して、朝貢するようになった。
【字解】
欠字が多く、正確に文意を読み取るのが難しい。
『拔新羅城』の次には“扈”のような字形の文字が来るが、どの漢字に当たるのかはよく分からない。
『倭滿』と『潰城』の間にある文字は、碑面では判読が困難だが、拓本では“倭”となっている。
『潰城』の後に来る1字も、碑面では判読できないが、拓本により“六”“大”と読む人がいる。
『盡』の前の1字は、一般的に“九”と解されるが、《水谷釈文》では判読不能としている。
『盡』の後の1字は、一般的に“臣”と解されるが、《水谷釈文》では“更”と解している。
『潰』と『安羅人戍兵』の間の4字は、石碑では読めないが、《水谷釈文》では“□以随□”と解している。最初の1字を“赤”とする研究者もいる。
『未有身來』の後に来る2字は、拓本により“朝貢”とされるが、《水谷釈文》では判読不能としている。
『開土境好太王』の前には“国𦊆上廣”が入るはず。
『寐錦』の前には“新羅”が入るはず。
【解説】
高句麗が新羅を援護して倭を破ったことが記されている。
『敎遣』とあるから、広開土王は親征していない。本来なら王自ら指揮していたのだろうが、この頃、高句麗は後燕の攻撃に遭い、王にそのような余裕はなかった。
高句麗が南へ全勢力を傾けるのをチャンスとみた後燕が急襲したのかもしれない。その場合、広開土王は親征の途中で引き返した可能性が高い。
『資治通鑑』や『三国史記』によると、2万の後燕軍が新城と南蘇城(いずれも遼寧省朝陽市)を攻撃し、高句麗は700余里の土地と5000戸の住民を失った。広開土王唯一の汚点ともいえる敗戦で、後燕との攻防は、当然のことながら石碑には刻まれていない。
『男居城』の場所は不明だが、高句麗軍は江原道から忠清北道を通って南下したと考えられるから、慶尚北道の北西部あたりにあったと思う。
新羅の西には加耶連合の一国である大伽耶国(慶尚北道高霊郡)があったから、倭は洛東江を遡るようにして北上して進軍したはずだ。しかし、倭軍は高句麗の大軍に抗うことができず、後退しながら南下した。
『任那加羅』はさまざまな意味にとれるが、直後に城名が来ているから、ここでは現在の慶尚南道金海市にあった国を指している。
『安羅』は慶尚南道咸安郡にあった加羅諸国のひとつで、任那加羅の西側に位置していた。
『戍兵』は戍卒と同義で守備兵のことだが、なぜ安羅の守備兵が新羅の王城を攻めたりしたのか、欠字が多いため正確に解明することはできないが、『安羅人戍兵』という言葉が3度も登場するところから推測すると、高句麗軍をおおいに苦しめたようだ。
『寐錦』=“尼師今”。新羅語で君主を意味する。『三国史記』によると、第18代までが“尼師今”と、第19代から第22代までが“麻立干”と、第23代以降は中国風に“王”と称した。
最後の一文も欠字が多くて解釈しづらいが、どうやらこのときの派兵が契機となって、新羅王自らが朝貢するようになったらしい。
402年に即位した実聖王は、前年まで高句麗で人質として暮らしていたし、高句麗の後押しで王位に就いたようだから、集安を訪ねることに大きな抵抗はなかったものと思われる。